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夫の妾を殺して逃げ切り離婚の成立
文禄4年(1595年)頃、福は結婚しました。
相手は小早川秀秋の家臣・稲葉正成(まさなり)。
稲葉家の婿養子としてやってきた武将であり、この夫と福は“強烈な事件”を経て離縁しています。ざっと説明しますと……。
あるとき福は、夫の正成がこっそり妾を持ち、男児まで産ませていたことを知りました。
福はその妾を呼び寄せ、優しく声をかけます。
「お気になさらないでくださいね。なんでも男の子までいるんですって? ここで育てればよいのですよ」
その様子に夫も安心し、妾もホッとして同居するようになりました。
ところが夫の留守中、福はこっそり刀を隠し持って妾に近づき、一刀のもと斬り捨てたのです!
そして彼女は、用意してあった駕籠に乗ると、そのまま逐電してしまいました。
福は、正成の子・幼い正勝を抱いて逃げたともされます。
当時は、女性が逃走に成功し、そのまま城や屋敷に駆け込むと離婚が成立しました。
これを聡明と見るか、恐ろしいと戦慄するか。
いずれにせよ非常に手際がよく、彼女が只者でなかったことは確かでしょう。
竹千代(徳川家光)の乳母になる
慶長9年(1604年)7月17日――江戸城西の丸で、徳川秀忠の二男が産声を上げました。
秀忠には2年前にも長丸という男児が産まれていましたが、ほどなくして夭折。
そんな最中に生まれた男児は、やや早産ながら健康であり、伏見にいた家康も殊の外喜ぶと、自らの幼名から「竹千代」と名付けました。
後の徳川家光です。
待望の後継ぎ誕生に将軍家ではにぎにぎしく祝いが行われ、乳母につけられたのが稲葉福でした。
なんと彼女は、徳川宗家の後継者を任されたのです。
だからでしょうか。竹千代の出生には、ある疑惑が囁かれます。
福は、乳母でなはく、生母ではないか? というものです。
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今後もその確証が得られることはおそらく無いでしょうが、いずれにせよ竹千代が彼女の胸に抱かれ、乳を飲んだことは確かです。
そして迎えた慶長10年(1605年)。
徳川秀忠が二代将軍になると、その翌慶長11年(1606年)、竹千代に弟が生まれ、国松と名付けられました。
後の徳川忠長です。
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国松は、兄の竹千代とは違い病弱で、生まれてから便通がなく、生死を彷徨いました。
そんな我が子を見て胸を痛めたのか、それとも別に理由があったのか。
母であるお江(江与・小督とも/本稿はお江で統一)は、自らの乳で国松を育てることにしました。
当時の貴婦人としては異例のことであり、それだけに弟への愛情が増してしまったようで、母・お江は国松を溺愛し、父・秀忠もそれにならいました。
かくして竹千代と国松が対立する構図が出来上がってしまうのです。
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