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【明智光秀の妻・明智煕子(妻木煕子)】
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光秀に側室がいれば解決可能
煕子の死期をめぐって生じたいくつかの矛盾――これは仮に「光秀に側室が存在した」と考えると解決可能になります。
二人の妻を想定すれば「死期が2つある」ことも説明ができますし、出自の不明瞭さにも納得がいきます。
そして、この二人の妻説を裏付ける、もう一つの根拠があります。
それは「光秀の子として知られる人物たちの母親がハッキリとは分かっていない」という点です。
先ほど、細川ガラシャが煕子の娘として知られていることは紹介しました。
が、明智家の家系図には明らかな矛盾や混乱が含まれていると指摘されています。
そのため、光秀と煕子の間に生まれた三男四女が明確に煕子の子であるという根拠は何一つ存在しないといえるのです。
したがって光秀が側室や前妻を娶っていた可能性も否定できず、理論上は複数の妻を迎えていても矛盾が生じません。
それどころか、煕子の死期をめぐる矛盾が容易に解決可能になるという側面もあります。
とはいえ、この説に関しても明確な根拠は存在せず、残念ながら真相を解明することは困難です。
松尾芭蕉が好んだ「内助の功」
真実かどうかはともかく、煕子の果たした「内助の功」は、後世に伝わることになりました。
江戸時代に突入すると「軍記物」が一種の流行となり、戦国時代の逸話に創作を織り交ぜた様々な伝説が流布していきます。
明智家も例外ではなく、良くも悪くも分からないことだらけであった彼らは、『明智軍記』などの軍記物によって一般的なイメージを確立していきました。
そして、煕子として伝わる名も世間に定着していき、遅くとも元禄年間までには社会的知名度を獲得していたようです。
その証拠に、江戸前期において「俳諧」を芸術として大成させた松尾芭蕉が彼女に敬意を払って詠んだ歌は、今でも煕子ゆかりの地である西教寺に残されています。
この句碑は西教寺境内に現存。先ほども紹介した「自身の髪を売って光秀を支えた」という逸話に芭蕉がいたく感動したと記されています。
芭蕉は、煕子に敬意を表する形で
「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」
【訳】閑静な月明かりのもとですが、明智の妻の話をしましょう
という俳句を詠みました。
松尾芭蕉が大切にした「さび」の概念を読み込んだ歌で、彼の好みが存分に反映されています。
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江戸時代において明智光秀は「裏切り者」「逆臣」といった評価が下され、忠孝礼節を重んじる徳川の世ではしばしば軽んじられました。
芭蕉は中尊寺の俳句でも知られるように、もともと「判官贔屓」を好む傾向があったため、この時代の人物ながら明智家に好意的だったのでしょう。
しかし、時は流れて現代になると、光秀への評価もしだいに変化し始めています。
確かに信長を裏切った逆臣というイメージも依然として強いですが、同時に彼の人柄や能力にも注目が集まるようになり、再評価に連動する形で明智家の人々も見直されるようになってきました。
特に、2020年には大河ドラマ『麒麟がくる』の放送があり、主役の明智光秀(長谷川博己さん)共に、明智煕子(木村文乃さん)も描かれました(第39回放送で彼女は安らかな死を迎えました)。
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補足:信長の妻・濃姫だって……
戦国期から江戸時代にかけて女性は表舞台に名前のでる機会は少なく、仮に活躍したとしても史料に書き残されるケースは少ないものです。
明智煕子に限らず、著名な大名の妻であっても詳しい事績やエピソードはあまり見受けられません。
実際、同じ大名の妻であり『明智軍記』においては【光秀と想い合う仲であった】と指摘されている織田信長の妻・濃姫ほどに有名な女性も例外ではありませんでした。
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そもそも「濃姫」という名が示す意味は「美濃の高貴な女」という意味であり、厳密には名を表すものではない。
彼女の名は諸説があり、また出自も同様に不詳。
美濃国で政争の道具として振り回されている間は他の時期よりも史料に顔をのぞかせますが、天文22年(1553年)以降は史料から記載が消滅してしまいました。
このように煕子だけでなく、大名の妻という存在に関しては、そもそも歴史上にその姿を残していないことの方が多く、我々が抱いているイメージは大半が後世の創作であることも珍しくありません。
つまり、煕子に限って言えば「ただでさえ史料に乏しい明智家の人物かつ女性」ということになり、歴史学的な観点からはほとんどその実像が分かっていません。
なお、ドラマに登場した人物史伝については以下の関連記事にございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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文:とーじん
【参考】
谷口研語『明智光秀:浪人出身の外様大名の実像(洋泉社)』(→amazon)
安廷苑『細川ガラシャ(中央公論新社)』(→amazon)
上総英郎 (編集)『細川ガラシャのすべて(新人物往来社)』(→amazon)