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【明智光秀の妻・明智煕子(妻木煕子)】
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織田家の家臣になったのは?
明確な記載はないものの、光秀が正式に織田家の家臣になったのは1571〜1573年だと想定されます。
当初は蜜月だった義昭と信長の仲が徐々に嫌悪ムードとなり、この71〜73年頃には義昭が全国の諸将へ向けて「織田信長を討て!」という命令を出しているのです。
そして1573年に織田vs足利の【槇島城の戦い】があり、信長は京都から義昭を追い出しました(室町幕府の滅亡)。
以前から光秀が信長の下で働いていたのは間違いなさそうですが、この戦いが足利→織田へと移った決定的な出来事と言えるでしょう。
ちなみに、1568年以前の光秀は、斎藤道三の側にいたとも伝えられます。
道三が長良川の戦い(1556年)で息子の斎藤義龍に敗北すると、光秀も斎藤家から越前へ逃れることになり、そこで細川藤孝と親しくなったといいます。
マトメますと……。
【光秀と煕子の動き】
◆1540〜1550年辺りに結婚
◆1556年以前 美濃(斎藤家に仕える)
◆1556年以降 美濃を追われて越前・朝倉氏の世話になる
◆1568年 足利義昭を奉じて上洛
◆1571年 近江坂本城に移り住む
◆1576年に煕子の死亡説(1579年に生存の記述もあり)
◆1582年本能寺の変
兼見卿記に興味深い記述あり……
煕子を深く愛していた光秀は側室をもうけなかったとも伝わります。
そのため、光秀の人物像は「愛妻家」として語られることも多く、裏切り者として描かれがちな光秀の美徳として、創作などではしばしばこの設定が用いられました。
しかし、注目しなければならないのは、上記のエピソードはどれも「軍記物」や「二次史料」が出典であり、創作の可能性が高いという点です。
そもそも出自や呼称さえハッキリしていない煕子。逸話だけが独り歩きしているのもいくらか不自然ではあります。
さらに、上記のような「一途な愛」を貫いたとされる光秀の女性関係ですが、それを否定する可能性を示す史料もあります。
当時の公卿・吉田兼見が記した一次史料『兼見卿記』に注目です。
同日記の記載によれば、天正4年(1576年)に、光秀は大坂を攻めている陣中で発病。筆者の吉田兼見は神職にもついていたので、彼が病気治癒の祈祷を担当しました。
病はかなり重度とされていましたが、祈祷の甲斐あってか、無事快方に向かいます。そしてその同年には煕子も病に倒れたと伝わります。
このエピソードは一般的に光秀の愛妻家ぶりを裏付けるものとして、好意的な文脈で採用されることが多いです。
ただ、他の史料とこの記載に関連する内容を突き合わせていくと、興味深い内容が浮かんできます。
実は、明智光秀には、2人以上の妻や側室がいたのではないか? ということです。
病気の記録はあるのに、その直後の死を無視する?
先ほども紹介した西教寺の『過去帳』に次のような記載があります。
【天正4年(1576年)11月7日に明智光秀室(妻)死去】
この表記が、引っ掛かります。
『兼見卿記』では同年10月24日の時点で病気が快方に向かっていることが述べられており、両史料が正しければ、
・煕子は10月に病気が治った(兼見卿記)
・それが11月に病状が急変して死亡した(過去帳)
となるでしょう。
しかし、吉田兼見の兼見卿記では
【10月の時点で煕子の病状を詳細に書き残しておきながら、11月の死については一切触れてない】
のです。
不自然ではありませんか?
しかも『明智軍記』によれば
【天正7年(1579年)当時煕子は45歳だった】
という記述もある。
・1576年死亡→西教寺過去帳
・1579年生存→明智軍記によればこのとき45歳
何か色々とバラバラで頭が混乱してきそうです。
確かに『明智軍記』は史料的価値が乏しく無視することも可能です。病状が急変して亡くなってしまうことも当時では珍しいことではないでしょう。
しかし、です。
それぞれの表記が、もしも、2人以上の別の女性を指し示していたら?
光秀に側室がいた可能性も出てくるのではないでしょうか。
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