時は天正17年(1589年)。
【摺上原の戦い】で矛を交えた伊達家と蘆名家。
東北の合戦というと、ほぼ確実に伊達政宗を中心に語られたりしますが、蘆名家サイドから見ればまた違った歴史の見方があるもので。
今回の主役は金上盛備です。
名前の読み方からして謎……という方が多いかも知れません。
「かながみもりはる」と読み、その能力の高さから【会津執権】と呼ばれることもあるほどです。
しかし、一部の戦国ファンには、別の意味で有名だったりします。
『戦国大戦』というゲームで謎のボンテージファッションに身を包み、強烈な存在感を放っていることからニコニコ動画(→link)でもお笑い的存在としてその名が広まったりしております。

戦国大戦 他073 UC金上盛備/amazonより引用
↑
こちらですね。
アマゾンでカードが出品されています。
この画像一発であらゆる情報が吹き飛んでしまいそうですが、できましたら脳内を史実モードへお戻しください。
これより金上盛備の功績について振り返ってみたいと思います。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
金上盛備のルーツは佐原義連
金上盛備の金上氏は、先祖を辿れば蘆名氏と同じ佐原義連(さわらよしつら)に辿り着きます。
-
-
源頼朝53年の生涯まとめ! 出生から鎌倉幕府の設立 死因 その素顔に迫る
続きを見る
そんな説明ではわかりにくい――という方は源平合戦【一ノ谷の戦い】における【鵯越の逆落とし】をご想像してみてください。
-
-
一ノ谷の戦い(鵯越の逆落とし) 源平合戦の趨勢を決め 義経はヒーローに!
続きを見る
源義経が崖のような坂を下り、平家を打ち破ったあの戦い。
そこで先陣を切ったのが佐原義連であり、鎌倉幕府の成立に多大なる貢献を果たした義連は、会津に所領を与えられるのでした。
-
-
戦国会津の統治者は政宗や氏郷に非ず! 佐原義連を祖とする蘆名一族なり
続きを見る
金上氏はその分家筋に当たり、名門中の名門と言っていいでしょう。
盛備は第15代目当主。
大永7年(1527年)に生まれ、全盛期の蘆名盛氏(1521-1580年)を支えました。
-
-
会津の名将・蘆名盛氏の野望!伊達と手を組み武田&北条とも繋がった手腕
続きを見る
6歳上の主君・盛氏に対しては、兄のような親しさを感じたことでしょう。
同じ東北で言えば、伊達政宗と伊達成実に似た関係かもしれません。
-
-
伊達政宗のド派手な逸話はどこまでマジ? 史実で振り返る生涯70年が面白い!
続きを見る
-
-
伊達成実はなぜ政宗の元を離れ戻ってきたか?一門の貴公子79年の生涯まとめ
続きを見る
早いうちから複数回の上洛経験もあった
永禄2年(1559年)、蘆名氏は「屋形号」と従五位下修理太夫の綸旨を賜りました。
これを受け、翌年、盛備は上洛します。
永禄3年(1560年)と言えば、あの【桶狭間の戦い】が起きた年。信長が天下取りの第一歩を踏み出したその頃、盛備は、実に3度もの上洛経験があったのです。
-
-
桶狭間の戦いで信長が勝てたのは必然か『信長公記』にはどう書かれた?
続きを見る
-
-
織田信長の人物像に迫る!生誕から本能寺まで49年の生涯まとめ【年表付】
続きを見る
戦国時代も佳境を迎えるにあたり、奥州にも若い世代の波が訪れていたのでしょう。
上洛した盛備については、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が感服したという話も伝わっております。
秀吉いわく
「東国の田舎者っていうけど、結構センスいいし教養あるよね〜」
とのことで。
-
-
豊臣秀吉 数々の伝説はドコまで本当か? 62年の生涯まとめ【年表付き】
続きを見る
あくまで会津側の記録であり、信憑性は不明です。
それに身分の低い出自の秀吉は、武将の中でそこまで教養も高くはありません。
伊達政宗や最上義光のように、和歌、漢詩、連歌作品が多数残されておらず、【金上盛備が風流】だとする証拠は弱いことをご理解ください。
ただし、中央には負けられない――そんな奥州の意地「東鄙(とうひ・東国の田舎者)」と呼ばれる屈辱は伝わってきます。
※続きは【次のページへ】をclick!