金上盛備

金上盛備/wikipediaより引用

蘆名家

伊達と蘆名の争いでキーマンとなった戦国武将・金上盛備~摺上原に散る

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蘆名家20代当主を巡って家中は分裂

あらためて注目したいのは盛備の才能です。

会津・蘆名勢の武将として奥州を転戦していた武働きの記録があり、幾度も上洛の任に選ばれていることから教養や外交能力は家臣随一だったのでしょう。

そんな盛備も「最悪の選択」をしたことを指摘されたりします。

コトは蘆名の家督相続に関わるものでした。

蘆名盛隆(1561-1584年)の死を迎え、

蘆名盛隆
人質から戦国大名へ 蘆名隆盛は会津の名門を引き継ぎ一旦立て直すも

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その子・亀王丸まで亡くなった後の第20代当主を誰にするか?

【蘆名氏・当主】
第16代蘆名盛氏
第17代蘆名盛興
第18代蘆名隆盛
第19代亀王丸
第20代◯◯◯◯

「◯◯◯◯」に入る当初の候補は次のような者たちでした。

◆金上家平六郎の息子・岩松(平六郎は盛備の弟・つまり岩松は盛備の甥)

◆猪苗代盛国二男・小二郎

金上家と猪苗代家は、蘆名家臣団でもライバルにある名門。

猪苗代氏も主家の分家にあたり、会津の要害である猪苗代を任されていたのです。

そうした背景のためか、家臣団での意見が分裂してしまいます。

そこで、第二の選択肢が生まれました。

隣国から迎えるというものです。

佐竹義重二男・義広(金上派の支持)

◆伊達輝宗二男・小次郎(猪苗代派の支持)

結局は、ここでも金上派と猪苗代派に家臣たちは割れてしまいます。

奸臣として知られる猪苗代盛国は根回しに奔走し、それが功を奏してか、やがて伊達小次郎が優勢となりました。

自信をもった猪苗代盛国。

かねてから付き合いのあった伊達家に「小次郎で決定した」と告げに行く使者となりました。

一兵の損耗もなく弟を送り込むことで隣国蘆名を事実上領有できるのですから、伊達政宗も笑顔ホクホクになることでしょう。しかし……。

盛国が蘆名家に戻ってみると、留守中に決定が引っくり返され、金上派の押した義広で決まるのです。

 

「伊達に味方しないとおしまいだーッ!」

最悪の梯子外しをされ、猪苗代盛国の敗北感は、いかばかりか。

『伊達政宗が絶対に怒り狂うよ……いや、待て待て、諦めるな。蘆名本拠地の黒川(会津若松市)へ攻め込むには、我が領土・猪苗代を経由する。そう考えれば……』

盛国の選択肢はシンプルなものでした。

「伊達政宗に味方しないと、もうおしまいだーーーッ!」

天正13年(1585年)、猪苗代盛国は、政宗に対して、内応と引き換えに次のような要求をつきつけます。

◆会津占領後、北半分は領地としてください

◆今後、蘆名家から裏切る者が出ても、猪苗代をトップにしてください

◆もし陰謀が発覚したら、伊達家に逃亡しますので、その際は三百貫文の領地を保証してください

なんでしょう、この素人目にもわかる日和っぷり。

さすがにプライドがない――長子の猪苗代盛胤に、そう反対されてしまいます。しかし、これには、猪苗代家の家庭事情もありまして……。

盛国には二人の妻がおりました。

◆盛胤と盛直の母:金上氏出身

◆亀丸の母:二階堂氏出身

盛国は、盛胤と不仲でした。

天正16年(1588年)には盛胤が黒川に出向いた折に、隠居しておきながら猪苗代城を乗っ取っております。

「親子で争うな」と仏僧が反対し、やっと休戦したほどで、蘆名義広も叱責しました。

盛国は、後継者から盛胤を外したくてたまらなかったのです。

後妻の二階堂氏が、セクシーな態度で我が子を後継者にしろと囁いた――そんな俗説がありますが、あくまで傾城傾国神話の類でしょう。

ライバルである金上氏から迎えた先妻と、その間に生まれた子ともなれば、どうしたって心理的な対立が生じます。

蘆名家および金上氏側は、どうにも「猪苗代氏の不満に対して鈍感である」と感じてしまうのです。

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