金上盛備

金上盛備/wikipediaより引用

蘆名家

伊達と蘆名の争いでキーマンとなった戦国武将・金上盛備~摺上原に散る

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金上盛備
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秀吉の裁定に持ち込んだ方が得であろう

こうした状況の最中、金上盛備が無策だったわけではありません。

◆天正15年(1587年)義広と蘆名義興の遺児・れんみつ姫の祝言

→蘆名の血を引く子を儲けるため

◆天正16年(1588年)上洛して豊臣秀吉と面会

→豊臣政権と佐竹氏の関係は良好。義広の方が伊達小次郎よりも、中央との距離は近かったはず。

→外交での打破を考えていた形跡があります。

伊達政宗が蘆名領近辺を荒らし回る中、【豊臣政権による裁定】を狙う金上盛備の戦略は優れていました。

政宗と争うよりも、秀吉にお墨付きを貰った方が確実だと考えたのですね。

さすが「会津執権」と呼ばれるだけの知性を感じさせます。

しかし、彼には予想外の要素が二つありました。

◆猪苗代盛国のライバル心や不快感を軽視しすぎた

→盛国は、伊達軍の道案内を買って出るほど伊達家に傾斜しておりました。

◆伊達政宗が「豊臣政権を無視する傾向」を過小評価していた

→これはもう仕方がないとは思います。周辺大名も同じ印象を政宗に抱いていました。

ボタンの掛け違い――とでも言いましょうか。

 

摺上原の戦いで戦死

結果、挙兵した伊達家を相手に蘆名義広は【摺上原の戦い】を繰り広げ、政宗に完敗。

金上盛備も同合戦で奮闘し、命を散らすのでした。最後は討ち死にとも自刃ともされています。

享年63。

馬上で血にまみれて亡くなった武士としての忠義は、蘆名随一の家臣として後世高い評価を得ました。

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蘆名家の滅亡は、そうとしか言いようがない悲しさがつきまとっています。

豊臣政権が断固として、奥羽に対して【惣無事令】を布告していたら?

政宗がもっと敏感に中央の情勢を読むタイプであったら?

金上と蘆名側が、猪苗代側の不満に寄り添い、地理的な要素を考慮していたら?

結果は違っていたかもしれません。

 

会津藩は何を教訓とすべきだったのか

嘉永3年(1850年)のことです。

会津松平家第8代藩主・松平容敬(まつだいらかたたか)は、蘆名家の忠臣を讃える「三忠碑」を建てました。

金上盛備
佐瀬種常
佐瀬常雄

という順で名前が刻まれていて、金上盛備は筆頭におります。

一方、主君を裏切っただけでなく、敵を手引きした猪苗代盛国は、最悪の奸臣として会津の歴史に名を刻みました。

けれど、どうしたって皮肉な歴史があります。

会津藩が手本とすべきだったのは、金上盛備の忠義なのか?

それよりも、猪苗代が会津の玄関であることを再認識して、ここを落とされたら危険だと、盛国と摺上原の戦いから学ぶことだったのではないか?

私はそう思ってしまうのです。

江戸時代を通して、猪苗代城は会津藩第二の城でした。

保科正之はじめ、会津松平家の藩主を祀る土津神社がそこにはあり、大事な土地として認識されていたのです。

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そして軍事的に見ても、戦国期と変わらず会津の玄関口でした。

慶応4年(1868年)――。

松平家第9代藩主・松平容保が隠居し、第10代藩主・松平喜徳となった明治維新前夜。

会津藩は戊辰戦争に巻き込まれ、会津始まって以来の危難に瀕していました。

猪苗代まで西軍が迫った時、会津藩の対応は後手に周りました。猪苗代にかかる橋の破壊等、足止めに失敗して、予想を上回る進軍で敵が迫ってきたのです。

その代償は、高くつきました。

猪苗代方面に投入された予備兵力・白虎士中二番隊の自刃。

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避難ができずに、自刃してゆく藩士の女性と子供たち。

こうした犠牲は、猪苗代防衛を甘く見積もった藩の責任もあると思うのです。

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文:小檜山青

【参考文献】
遠藤ゆり子『戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)』(→amazon
長谷川城太郎『鄙の武将たち―歴史ドキュメント』(→amazon

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