時は天正17年(1589年)6月5日――。
【摺上原の戦い】で矛を交えた伊達家と蘆名家。
東北の合戦というと、ほぼ確実に伊達政宗を中心に語られたりしますが、蘆名家サイドから見ればまた違った歴史の見方があるもので、今回の主役は金上盛備です。
名前の読み方からして謎……という方が多いかも知れません。
「かながみもりはる」と読み、その能力の高さから【会津執権】と呼ばれることもあるほどです。
しかし、一部の戦国ファンには、別の意味で有名だったりします。
『戦国大戦』というゲームで謎のボンテージファッションに身を包み、強烈な存在感を放っていることからニコニコ動画(→link)でもお笑い的存在としてその名が広まったりしております。

戦国大戦 他073 UC金上盛備/amazonより引用
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こちらですね。アマゾンでカードが出品されています。
この画像一発であらゆる情報が吹き飛んでしまいそうですが、できましたら脳内を史実モードへお戻しください。
これより金上盛備の功績について振り返ってみたいと思います。
金上盛備のルーツは佐原義連
金上盛備の金上氏は、先祖を辿れば蘆名氏と同じ佐原義連(さわらよしつら)に辿り着きます。
義連は、三浦義明の息子であり、源頼朝の御家人。
そんな説明ではわかりにくい――。
という方は源平合戦【一ノ谷の戦い】における【鵯越の逆落とし】をご想像してみてください。
源義経が崖のような坂を下り、平家を打ち破ったあの戦い。
そこで先陣を切ったのが佐原義連であり、鎌倉幕府の成立に多大なる貢献を果たした義連は、会津に所領を与えられるのでした。

佐原義連(画:菊池容斎)/wikipediaより引用
金上氏はその分家筋に当たり、名門中の名門と言っていいでしょう。
盛備は第15代目当主。
大永7年(1527年)に生まれ、全盛期の蘆名盛氏(1521-1580年)を支えました。
6歳上の主君・盛氏に対しては、兄のような親しさを感じたことでしょう。
同じ東北で言えば、伊達政宗と伊達成実に似た関係かもしれません。
早いうちから複数回の上洛経験もあった
永禄2年(1559年)、蘆名氏は「屋形号」と従五位下修理太夫の綸旨を賜りました。
これを受け、翌年、盛備は上洛します。
永禄3年(1560年)と言えば、あの【桶狭間の戦い】が起きた年。

織田信長/wikipediaより引用
信長が天下取りの第一歩を踏み出したその頃、盛備は、実に3度もの上洛経験があったのです。
戦国時代も佳境を迎えるにあたり、奥州にも若い世代の波が訪れていたのでしょう。
上洛した盛備については、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が感服したという話も伝わっております。
秀吉いわく「東国の田舎者っていうけど、結構センスいいし教養あるよね〜」とのことで。
あくまで会津側の記録であり、信憑性は不明です。
それに身分の低い出自の秀吉は、武将の中でそこまで教養も高くはありません。
伊達政宗や最上義光のように、和歌、漢詩、連歌作品が多数残されておらず、【金上盛備が風流】だとする証拠は弱いことをご理解ください。
ただし、中央には負けられない――そんな奥州の意地「東鄙(とうひ・東国の田舎者)」と呼ばれる屈辱は伝わってきます。
蘆名家20代当主を巡って家中は分裂
あらためて注目したいのは盛備の才能です。
会津・蘆名勢の武将として奥州を転戦していた武働きの記録があり、幾度も上洛の任に選ばれていることから教養や外交能力は家臣随一だったのでしょう。
そんな盛備も「最悪の選択」をしたことを指摘されたりします。
コトは蘆名の家督相続に関わるものでした。
蘆名盛隆(1561-1584年)の死を迎え、その子・亀王丸まで亡くなった後の第20代当主を誰にするか?
【蘆名氏・当主】
第16代蘆名盛氏
第17代蘆名盛興
第18代蘆名隆盛
第19代亀王丸
第20代◯◯◯◯
第20代の「◯◯◯◯」に入る当初の候補は次のような者たちでした。
◆金上家平六郎の息子・岩松(平六郎は盛備の弟・つまり岩松は盛備の甥)
◆猪苗代盛国二男・小二郎
金上家と猪苗代家は、蘆名家臣団でもライバルにある名門。
猪苗代氏も主家の分家にあたり、会津の要害である猪苗代を任されていたのです。
そうした背景のためか、家臣団での意見が分裂してしまいます。
そこで生まれたのが第二の選択肢。
隣国から迎えるというものです。
◆佐竹義重二男・義広(金上派の支持)
◆伊達輝宗二男・小次郎(猪苗代派の支持)
結局は、ここでも金上派と猪苗代派に家臣たちは割れてしまいます。
奸臣として知られる猪苗代盛国は根回しに奔走し、それが功を奏してか、やがて伊達小次郎が優勢となりました。
自信をもった猪苗代盛国。
かねてから付き合いのあった伊達家に「小次郎で決定した」と告げに行く使者となりました。
一兵の損耗もなく弟を送り込むことで隣国蘆名を事実上領有できるのですから、伊達政宗も笑顔ホクホクになることでしょう。
しかし……。
盛国が蘆名家に戻ってみると、留守中に決定が引っくり返され、金上派の押した義広で決まるのです。
「伊達に味方しないとおしまいだーッ!」
最悪の梯子外しをされ、猪苗代盛国の敗北感は、いかばかりか。
『伊達政宗が絶対に怒り狂うよ……いや、待て待て、諦めるな。蘆名本拠地の黒川(会津若松市)へ攻め込むには、我が領土・猪苗代を経由する。そう考えれば……』
盛国の選択肢はシンプルなものでした。
「伊達政宗に味方しないと、もうおしまいだーーーッ!」

伊達政宗/wikipediaより引用
天正13年(1585年)、猪苗代盛国は、政宗に対して、内応と引き換えに次のような要求をつきつけます。
◆会津占領後、北半分は領地としてください
◆今後、蘆名家から裏切る者が出ても、猪苗代をトップにしてください
◆もし陰謀が発覚したら、伊達家に逃亡しますので、その際は三百貫文の領地を保証してください
なんでしょう、この素人目にもわかる日和っぷり。
さすがにプライドがない――長子の猪苗代盛胤に、そう反対されてしまいます。しかし、これには、猪苗代家の家庭事情もありまして……。
盛国には二人の妻がおりました。
◆盛胤と盛直の母:金上氏出身
◆亀丸の母:二階堂氏出身
盛国は、盛胤と不仲でした。
天正16年(1588年)には盛胤が黒川に出向いた折に、隠居しておきながら猪苗代城を乗っ取っております。
「親子で争うな」と仏僧が反対し、やっと休戦したほどで、蘆名義広も叱責しました。
盛国は、後継者から盛胤を外したくてたまらなかったのです。
後妻の二階堂氏が、セクシーな態度で我が子を後継者にしろと囁いた――そんな俗説がありますが、あくまで傾城傾国神話の類でしょう。
ライバルである金上氏から迎えた先妻と、その間に生まれた子ともなれば、どうしたって心理的な対立が生じます。
蘆名家および金上氏側は、どうにも「猪苗代氏の不満に対して鈍感である」と感じてしまうのです。
秀吉の裁定に持ち込んだ方が得であろう
こうした状況の最中、金上盛備が無策だったわけではありません。
◆天正15年(1587年)義広と蘆名義興の遺児・れんみつ姫の祝言
→蘆名の血を引く子を儲けるため
◆天正16年(1588年)上洛して豊臣秀吉と面会
→豊臣政権と佐竹氏の関係は良好。義広の方が伊達小次郎よりも、中央との距離は近かったはず。
→外交での打破を考えていた形跡があります。
伊達政宗が蘆名領近辺を荒らし回る中、【豊臣政権による裁定】を狙う金上盛備の戦略は優れていました。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
政宗と争うよりも、秀吉にお墨付きを貰った方が確実だと考えたのですね。
さすが「会津執権」と呼ばれるだけの知性を感じさせます。
しかし、彼には予想外の要素が二つありました。
二つの予想外の要素とは以下の通りです。
◆猪苗代盛国のライバル心や不快感を軽視しすぎた
→盛国は、伊達軍の道案内を買って出るほど伊達家に傾斜しておりました。
◆伊達政宗が「豊臣政権を無視する傾向」を過小評価していた
→これはもう仕方がないとは思います。周辺大名も同じ印象を政宗に抱いていました。
ボタンの掛け違い――とでも言いましょうか。
そして蘆名は伊達家との合戦を受けることになったのです。
摺上原の戦いで戦死
挙兵した伊達家を相手に蘆名義広は【摺上原の戦い】を繰り広げ、政宗に完敗してしまいました。
金上盛備も奮闘しながら、命を散らしてしまいます。
最後は討ち死にとも自刃ともされています。
享年63。
馬上で血にまみれて亡くなった武士としての忠義は、蘆名随一の家臣として後世高い評価を得ました。
蘆名家の滅亡は、そうとしか言いようがない悲しさがつきまとっています。
豊臣政権が断固として、奥羽に対して【惣無事令】を布告していたら?
政宗がもっと敏感に中央の情勢を読むタイプであったら?
金上と蘆名側が、猪苗代側の不満に寄り添い、地理的な要素を考慮していたら?
結果は違っていたかもしれません。

かつて金上盛備が入っていた津川城/wikipediaより引用
会津藩は何を教訓とすべきだったのか
嘉永3年(1850年)のことです。
会津松平家第8代藩主・松平容敬(まつだいらかたたか)は、蘆名家の忠臣を讃える「三忠碑」を建てました。
金上盛備
佐瀬種常
佐瀬常雄
という順で名前が刻まれていて、金上盛備は筆頭におります。
一方、主君を裏切っただけでなく、敵を手引きした猪苗代盛国は、最悪の奸臣として会津の歴史に名を刻みました。
けれど、どうしたって皮肉な歴史があります。
会津藩が手本とすべきだったのは、金上盛備の忠義なのか?
それよりも、猪苗代が会津の玄関であることを再認識して、ここを落とされたら危険だと、盛国と摺上原の戦いから学ぶことだったのではないか?
私はそう思ってしまうのです。
江戸時代を通して、猪苗代城は会津藩第二の城でした。
保科正之はじめ、会津松平家の藩主を祀る土津神社がそこにはあり、大事な土地として認識されていたのです。

保科正之/wikipediaより引用
そして軍事的に見ても、戦国期と変わらず会津の玄関口でした。
慶応4年(1868年)――。
松平家第9代藩主・松平容保が隠居し、第10代藩主・松平喜徳となった明治維新前夜。
会津藩は戊辰戦争に巻き込まれ、会津始まって以来の危難に瀕していました。
猪苗代まで西軍が迫った時、会津藩の対応は後手に周りました。猪苗代にかかる橋の破壊等、足止めに失敗して、予想を上回る進軍で敵が迫ってきたのです。
その代償は、高くつきました。
猪苗代方面に投入された予備兵力・白虎士中二番隊の自刃。
避難ができずに、自刃してゆく藩士の女性と子供たち。
こうした犠牲は、猪苗代防衛を甘く見積もった藩の責任もあると思うのです。
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【参考文献】
遠藤ゆり子『戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)』(→amazon)
長谷川城太郎『鄙の武将たち―歴史ドキュメント』(→amazon)





