金上盛備

金上盛備/wikipediaより引用

蘆名家

伊達vs蘆名のキーマンとなった戦国武将・金上盛備~摺上原に散る

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
金上盛備
をクリックお願いします。

 

そこで生まれたのが第二の選択肢。

隣国から迎えるというものです。

佐竹義重二男・義広(金上派の支持)

伊達輝宗二男・小次郎(猪苗代派の支持)

結局は、ここでも金上派と猪苗代派に家臣たちは割れてしまいます。

奸臣として知られる猪苗代盛国は根回しに奔走し、それが功を奏してか、やがて伊達小次郎が優勢となりました。

自信をもった猪苗代盛国。

かねてから付き合いのあった伊達家に「小次郎で決定した」と告げに行く使者となりました。

一兵の損耗もなく弟を送り込むことで隣国蘆名を事実上領有できるのですから、伊達政宗も笑顔ホクホクになることでしょう。しかし……。

盛国が蘆名家に戻ってみると、留守中に決定が引っくり返され、金上派の押した義広で決まるのです。

 

「伊達に味方しないとおしまいだーッ!」

最悪の梯子外しをされ、猪苗代盛国の敗北感は、いかばかりか。

『伊達政宗が絶対に怒り狂うよ……いや、待て待て、諦めるな。蘆名本拠地の黒川(会津若松市)へ攻め込むには、我が領土・猪苗代を経由する。そう考えれば……』

盛国の選択肢はシンプルなものでした。

「伊達政宗に味方しないと、もうおしまいだーーーッ!」

天正13年(1585年)、猪苗代盛国は、政宗に対して、内応と引き換えに次のような要求をつきつけます。

◆会津占領後、北半分は領地としてください

◆今後、蘆名家から裏切る者が出ても、猪苗代をトップにしてください

◆もし陰謀が発覚したら、伊達家に逃亡しますので、その際は三百貫文の領地を保証してください

なんでしょう、この素人目にもわかる日和っぷり。

さすがにプライドがない――長子の猪苗代盛胤に、そう反対されてしまいます。しかし、これには、猪苗代家の家庭事情もありまして……。

盛国には二人の妻がおりました。

◆盛胤と盛直の母:金上氏出身

◆亀丸の母:二階堂氏出身

盛国は、盛胤と不仲でした。

天正16年(1588年)には盛胤が黒川に出向いた折に、隠居しておきながら猪苗代城を乗っ取っております。

「親子で争うな」と仏僧が反対し、やっと休戦したほどで、蘆名義広も叱責しました。

盛国は、後継者から盛胤を外したくてたまらなかったのです。

後妻の二階堂氏が、セクシーな態度で我が子を後継者にしろと囁いた――そんな俗説がありますが、あくまで傾城傾国神話の類でしょう。

ライバルである金上氏から迎えた先妻と、その間に生まれた子ともなれば、どうしたって心理的な対立が生じます。

蘆名家および金上氏側は、どうにも「猪苗代氏の不満に対して鈍感である」と感じてしまうのです。

 

秀吉の裁定に持ち込んだ方が得であろう

こうした状況の最中、金上盛備が無策だったわけではありません。

◆天正15年(1587年)義広と蘆名義興の遺児・れんみつ姫の祝言

→蘆名の血を引く子を儲けるため

◆天正16年(1588年)上洛して豊臣秀吉と面会

→豊臣政権と佐竹氏の関係は良好。義広の方が伊達小次郎よりも、中央との距離は近かったはず。

→外交での打破を考えていた形跡があります。

伊達政宗が蘆名領近辺を荒らし回る中、【豊臣政権による裁定】を狙う金上盛備の戦略は優れていました。

政宗と争うよりも、秀吉にお墨付きを貰った方が確実だと考えたのですね。

さすが「会津執権」と呼ばれるだけの知性を感じさせます。

しかし、彼には予想外の要素が二つありました。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-蘆名家
-

×