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【金上盛備】
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二つの予想外の要素とは以下の通りです。
◆猪苗代盛国のライバル心や不快感を軽視しすぎた
→盛国は、伊達軍の道案内を買って出るほど伊達家に傾斜しておりました。
◆伊達政宗が「豊臣政権を無視する傾向」を過小評価していた
→これはもう仕方がないとは思います。周辺大名も同じ印象を政宗に抱いていました。
ボタンの掛け違い――とでも言いましょうか。
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摺上原の戦いで戦死
結果、挙兵した伊達家を相手に蘆名義広は【摺上原の戦い】を繰り広げ、政宗に完敗。
金上盛備も同合戦で奮闘し、命を散らすのでした。最後は討ち死にとも自刃ともされています。
享年63。
馬上で血にまみれて亡くなった武士としての忠義は、蘆名随一の家臣として後世高い評価を得ました。
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蘆名家の滅亡は、そうとしか言いようがない悲しさがつきまとっています。
豊臣政権が断固として、奥羽に対して【惣無事令】を布告していたら?
政宗がもっと敏感に中央の情勢を読むタイプであったら?
金上と蘆名側が、猪苗代側の不満に寄り添い、地理的な要素を考慮していたら?
結果は違っていたかもしれません。
会津藩は何を教訓とすべきだったのか
嘉永3年(1850年)のことです。
会津松平家第8代藩主・松平容敬(まつだいらかたたか)は、蘆名家の忠臣を讃える「三忠碑」を建てました。
金上盛備
佐瀬種常
佐瀬常雄
という順で名前が刻まれていて、金上盛備は筆頭におります。
一方、主君を裏切っただけでなく、敵を手引きした猪苗代盛国は、最悪の奸臣として会津の歴史に名を刻みました。
けれど、どうしたって皮肉な歴史があります。
会津藩が手本とすべきだったのは、金上盛備の忠義なのか?
それよりも、猪苗代が会津の玄関であることを再認識して、ここを落とされたら危険だと、盛国と摺上原の戦いから学ぶことだったのではないか?
私はそう思ってしまうのです。
江戸時代を通して、猪苗代城は会津藩第二の城でした。
保科正之はじめ、会津松平家の藩主を祀る土津神社がそこにはあり、大事な土地として認識されていたのです。
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そして軍事的に見ても、戦国期と変わらず会津の玄関口でした。
慶応4年(1868年)――。
松平家第9代藩主・松平容保が隠居し、第10代藩主・松平喜徳となった明治維新前夜。
会津藩は戊辰戦争に巻き込まれ、会津始まって以来の危難に瀕していました。
猪苗代まで西軍が迫った時、会津藩の対応は後手に周りました。猪苗代にかかる橋の破壊等、足止めに失敗して、予想を上回る進軍で敵が迫ってきたのです。
その代償は、高くつきました。
猪苗代方面に投入された予備兵力・白虎士中二番隊の自刃。
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避難ができずに、自刃してゆく藩士の女性と子供たち。
こうした犠牲は、猪苗代防衛を甘く見積もった藩の責任もあると思うのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
遠藤ゆり子『戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)』(→amazon)
長谷川城太郎『鄙の武将たち―歴史ドキュメント』(→amazon)