金上盛備

かつて金上盛備が入っていた津川城/wikipediaより引用

蘆名家

伊達vs蘆名のキーマンとなった戦国武将・金上盛備~摺上原に散った63年の生涯

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「伊達に味方しないとおしまいだーッ!」

最悪の梯子外しをされ、猪苗代盛国の敗北感は、いかばかりか。

伊達政宗が絶対に怒り狂うよ……いや、待て待て、諦めるな。蘆名本拠地の黒川(会津若松市)へ攻め込むには、我が領土・猪苗代を経由する。そう考えれば……』

盛国の選択肢はシンプルなものでした。

「伊達政宗に味方しないと、もうおしまいだーーーッ!」

天正13年(1585年)、猪苗代盛国は、政宗に対して、内応と引き換えに次のような要求をつきつけます。

◆会津占領後、北半分は領地としてください

◆今後、蘆名家から裏切る者が出ても、猪苗代をトップにしてください

◆もし陰謀が発覚したら、伊達家に逃亡しますので、その際は三百貫文の領地を保証してください

なんでしょう、この素人目にもわかる日和っぷり。

さすがにプライドがない――長子の猪苗代盛胤に、そう反対されてしまいます。しかし、これには、猪苗代家の家庭事情もありまして……。

盛国には二人の妻がおりました。

◆盛胤と盛直の母:金上氏出身

◆亀丸の母:二階堂氏出身

盛国は、盛胤と不仲でした。

天正16年(1588年)には盛胤が黒川に出向いた折に、隠居しておきながら猪苗代城を乗っ取っております。

「親子で争うな」と仏僧が反対し、やっと休戦したほどで、蘆名義広も叱責しました。

盛国は、後継者から盛胤を外したくてたまらなかったのです。

後妻の二階堂氏が、セクシーな態度で我が子を後継者にしろと囁いた――そんな俗説がありますが、あくまで傾城傾国神話の類でしょう。

ライバルである金上氏から迎えた先妻と、その間に生まれた子ともなれば、どうしたって心理的な対立が生じます。

蘆名家および金上氏側は、どうにも「猪苗代氏の不満に対して鈍感である」と感じてしまうのです。

 


秀吉の裁定に持ち込んだ方が得であろう

こうした状況の最中、金上盛備が無策だったわけではありません。

◆天正15年(1587年)義広と蘆名義興の遺児・れんみつ姫の祝言

→蘆名の血を引く子を儲けるため

◆天正16年(1588年)上洛して豊臣秀吉と面会

→豊臣政権と佐竹氏の関係は良好。義広の方が伊達小次郎よりも、中央との距離は近かったはず。

→外交での打破を考えていた形跡があります。

伊達政宗が蘆名領近辺を荒らし回る中、【豊臣政権による裁定】を狙う金上盛備の戦略は優れていました。

政宗と争うよりも、秀吉にお墨付きを貰った方が確実だと考えたのですね。

さすが「会津執権」と呼ばれるだけの知性を感じさせます。

しかし、彼には予想外の要素が二つありました。

二つの予想外の要素とは以下の通りです。

◆猪苗代盛国のライバル心や不快感を軽視しすぎた

→盛国は、伊達軍の道案内を買って出るほど伊達家に傾斜しておりました。

◆伊達政宗が「豊臣政権を無視する傾向」を過小評価していた

→これはもう仕方がないとは思います。周辺大名も同じ印象を政宗に抱いていました。

ボタンの掛け違い――とでも言いましょうか。

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