蘆名家滅亡

伊達輝宗(左)と伊達政宗/wikipediaより引用

蘆名家

戦国蘆名家はなぜ滅亡したのか 会津が輝宗&政宗親子の手に落ちるまでの顛末

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【敵(大内)を味方する奴(蘆名)も敵!】

どうしてこの状況に、蘆名家が関係あるのか?

定綱が頼れる勢力が、他ならぬ蘆名家でした。

政宗の中での図式は、こうなります。

【敵(大内)を味方する奴(蘆名)も敵!】

もう、ともかく何かを殴らないと気分がおさまらない!

現代人なら格闘ゲームやボクササイズがありますが、政宗は戦国大名ですので、そこは合戦。

「むしゃくしゃしてやった! 蘆名でもよかった!」

動機を一行でまとめると、こうなりかねない。

そんな独眼竜が家督相続後に挑んだ戦いが【関柴合戦】です。

絵・富永商太

えっ、政宗さん……そんなこと知りたくなかった!

もう嫌だ!

現実を否定したくなる気持ちはわかります。

私も、つらい。しかし、史実根拠があるんです……。

米沢と会津は近接しておりました。米沢街道が現在も残っております。

5月、ここを怒涛の勢いで攻めのぼり、檜原城近辺を攻略。

ちなみに現在は桧原湖(→link)が有名ですが、当時は存在しません。磐梯山の噴火により、明治時代以降生まれたのです。

そう言えば……伊達政宗が若くして当主になったことから、周辺大名をこうみなす意見を見かけたことがあります。

「いい歳こいて、まだ高校生くらいの政宗に酷くない?」

その理屈を適応しますと、蘆名家相手の政宗の振る舞いはこうなります。

vs亀王丸←親戚の乳幼児を殴る高校生の政宗

vs蘆名義広←周囲の制止を振り切って、中学生を殴り倒す大学生の政宗

政宗を擁護すると、ブーメランで政宗に突き刺さってしまう、そんな状況だったんですね。

 


レッツ・パーリー♪ 蘆名を滅ぼし会津ゲットだぜ

このあと、南奥羽(現在の福島県)は、政宗のパーリータイムによって荒らされまくります。

天正13年(1587年)の輝宗死後は、まるでブレーキが壊れたダンプ。

この輝宗の死については、虎哉宗乙が全力でダメ出ししているほど、無茶苦茶な経過でした。

彼自身の問題だけではなく、きょうだいが少なくて武力攻勢しかない、そんな事情もありますが、ともかく暴れん坊の甥に対して、せっかく伊達家とコンビを結成していた最上義光もついていけない。

伊達家と最上家が援軍を出し合うこと、贈答、書状のやりとりは続いますが、次第に苦々しい関係になっていきます。

「義光って、カッコつけているだけのカスじゃね?」

「政宗はやばい。あんな非常識なクソガキ、信じちゃダメ」

裏では互いを牽制し、罵倒し合うという、ギスギスした親戚(伯父と甥)でした。

とはいえ、そんな義光の苦悩だって、蘆名家に比べたらマシでしょう。

天正14年(1586年)、第19代・亀王丸が疱瘡で死去してしまうのです。わずか3歳でした。

ここで政宗は、こうなります。

「チャンス到来だ! 蘆名(会津)をゲットだぜ!」

 


そして会津蘆名家は滅びた

政宗は、父祖のようにきょうだいが多くはありません。

カードとなるのは、弟の小次郎のみ。

彼を蘆名家当主にすれば、伊達家の配下になるようなもの。そこで政宗は、蘆名の後継ぎとして小次郎を猛然とプッシュします。

はたして蘆名家の選択は?

佐竹義重さんの二男を後継者にします」

「ぬぐぐぐぐぅううううう!」

天正15年(1587年)。

こうして佐竹家から迎えられた義広が、蘆名家第20代当主となりました。

この決定に対して、政宗がどれだけムカついたか。

「はぁ? よりにもよって俺が大嫌いな佐竹からって、喧嘩売ってんの?」

天正13年(1587年)の【人取橋の戦い】で、政宗は佐竹義重を相手に戦い、危うく死にかけております。

伊達成実の奮闘により命からがら戦場から逃げ出せたのです。

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このころ、政宗をさらにヒートアップさせる事態も発生します。伊達成実経由で、こんなオファーが届いたのです。

「会津に潜伏している大内定綱、伊達家に帰参したいってよ」

「ん? わざわざ殺されにきたいってか? どうしようかな♪」

「ただでさえ会津で人望ないのに、そういうノリ、やめてくださいよ……」

このあたりの詳細はハッキリしておりませんが、ノリノリの政宗を、片倉景綱が頑張っておさめたようではあります。

狙いもあったのでしょう。

「大内定綱は、会津の政情や地理を知っています。蘆名を倒すのであれば、あいつは泳がせた方が無難です」

「そうだな、言われてみれば、蘆名の方が俺にしつこく喧嘩を売ってんだよ(※政宗側の認識)。優先的にあっちから潰す」

そんな思惑の中、天正16年(1588年)、大内定綱は政宗に降ります。これを契機に蘆名家は、政宗によって骨抜きにされてゆくのです。

盛氏の死後、蘆名は空中分解しつつありました。

戦国期のど真ん中で、中興の祖(盛氏)が現れたかと思ったら、その直後から次々に当主が替わっていくのですから致し方ないところでもありましょう。

潮目は完全に政宗に向いてきました。

有力家臣の猪苗代氏も、伊達家に接触し始めています。

猪苗代は、盆地である会津に攻め入る地理的な要素としても、重要でした。

幕末の「会津戦争」でも、猪苗代陥落がターニングポイントとなっております。

政宗からすれば、これはもう敵に王手をかけたようなもの。

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この流れの中で、政宗の親族にあたる彦姫も没してしまいます。

かくして、政宗にとって蘆名を潰す上での障害が消滅。

天正17年(1589年)【摺上原の合戦】へとなだれ込み、政宗はついに蘆名家に大勝利をおさめて因縁の地・会津を獲得するのでした。

会津の黒川城は抵抗することなく、あっさりと開門するほかありません。

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蘆名義広は実家の佐竹氏を頼るため、常陸へ逃走。

かくして、佐原義連以来続いていた、会津支配者としての蘆名家は終焉を迎えるのでした。

※その後、義広は佐竹氏の秋田転封に従い、亡くなったのは1631年7月6日(寛永8年6月7日)のことでした


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文:小檜山青
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