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【蘆名家の滅亡】
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ノブヤボの顔芸でお馴染み二階堂盛義さんの息子が
蘆名では盛氏の息子・盛興が若くして亡くなり、血統が途絶えてしまいました。
後継者は誰になったのか?
蘆名盛隆です。
須賀川二階堂氏7代当主・二階堂盛義の長男が養子入りしたのでした。
『信長の野望』では顔芸武将とされておりますが、それだけの人物では当然ありません。
【兵よ大志を抱けキャンペーン】このキャンペーンを発表した9月23日は二階堂盛義の命日でもありました。ちなみに、二階堂盛義2017は「にかいどうもりよしツーサウザンドセブンティーン」が個人的に正しい読みです。
★ご応募はこちらから→https://t.co/tpiDnhlCWF pic.twitter.com/PeLJI22s6k— 信長の野望シリーズ(公式) (@nobunaga_kt) September 27, 2017
彼の正室は、伊達晴宗を父とする阿南姫(大乗院)。
東北にもいた女城主として『信長の野望』シリーズにも参戦しています。
一行でまとめますと【政宗の横暴にガチギレした親戚のおばさん】というところ。
【政宗にガチギレした親戚枠】ですね。
その阿南姫の息子・盛隆が蘆名家を継いだ理由は【人質だったから】というものでした。盛隆の父が蘆名盛氏との戦いに敗れ、預けられていたのです。
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永禄4年(1561年)生まれであり、若くそれなりに英明であったと推察できる盛隆。
蘆名が二階堂家の人脈を頼ったとされていますが、それを言うならば奥羽の大名全般にそういう傾向があります。
では、盛隆はどんな人物だったのか?
というと、これが悲しいことにその像はぼんやりとしているのです。
むしろこのとき会津で目立っていたのは脇役こと上杉景勝でした。
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名門上杉家を束ねる立場になった景勝は、実のところ危機に直面しておりました。
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最上義光がチラチラと庄内を窺い。
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すわ御家滅亡か――というところで明智光秀が【本能寺の変】を強行し、これにてようやく一息つくまで、上杉家は周囲から圧迫され続けていたのです。
16代の盛氏&17代の盛興の後を継いだ18代当主・蘆名盛隆は、この景勝との外交程度しか活躍の形跡は確認できません。
盛隆あっさり死亡 蘆名の受難は続く
実のところ盛隆も跡を継ぐだけで手一杯でした。
盛氏の死後、各地で蜂起が起こり、非常にストレスフルな状態。
そして事件は起きてしまいます。
天正12年(1584年)秋。盛隆は、家臣の大庭三左衛門に斬りつけられ、23歳の若さで没してしまったのです。
この一件、男色関係のもつれから、という俗説で知られますが、断定は難しいところ。
確かに男色がもたらす感情のすれ違いは、危険性が高いものではあります。
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ただし、後世の潤色の可能性も考えられる。
盛興のアルコール中毒ともども、蘆名家の因果応報論ゆえの脚色も感じさせるところです。
ともかくここで明白なことは、盛隆の死で得をする勢力がいたこと――。
誰が蘆名の跡を継ぐのか。
蘆名家第19代当主は、盛隆の忘れ形見で、生まれて間もない亀王丸に定められました。
母は彦姫です。
伊達晴宗の四女であり、彼女は一度、蘆名盛興に嫁いで、その盛興が亡くなると、盛隆の正室とされていたのでした。いやはや伊達家の女性も、大変な運命にあります。
一方で、そんな深刻な状況を喜ぶかのような人物もおりました。
蘆名にとって最大の鬼門・伊達政宗。
ついに登場です。
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幼い頃はシャイだった政宗。
養育した虎哉宗乙の教育方針なのか。
父母がのびのびと育てたのか。
イケイケに育ち、酒も大好き、発作的な暴力傾向あり、ともかく元気が有り余っておりました。
天正12年(1584年)秋、父・輝宗の隠居と共に家督相続も済ませます。
ただし、ここは注意したいところで、当時の認識では二頭体制の続投方針であり、輝宗の権限はしっかりと残されております。
奥羽屈指の名門たる、そんな伊達家の家督相続です。
翌年の正月まで、お祝いが届けられ、使者も米沢まで続々とやってきました。
その中に、大内定綱という武将がおりました。
彼はなかなか複雑な事情を抱えておりまして、かつては田村家におりながら、独立を狙い、それを果たした知略の人物なのです。
おーい、定綱さーん。伊達家と、あなたが苦しめた田村家は姻戚関係ですよー。そう突っ込みたくなる。
自分の智謀におごったのか、政宗を過小評価したのか。
雪深い米沢に滞在するうちに、定綱はのこのこと米沢に来たことを「やっちまった……」と気づきます。
そこで、一月には脱出。
春になれば戻るかと思っていた伊達家ですが、一向に帰ってくる気配はありません。
政宗はイライラしながら、レター攻勢を仕掛けます。
大内、こら、早く来いよ、戻れよ、顔を見せろよ。そう急かす。遠藤基信ら家臣まで、催促に動員されております。
「戻れよ〜。殺さないからさ〜。知行もやるってば〜。米沢までカモンカモン」
「ありがたいお言葉ですが、たとえ滅亡しようと伊達だけは、無・理・で・す」
「は? もうあいつはぶち殺すしかない!」
「おいっ、そのくらいでいちいち殺さない!」
政宗がガチギレして、ブレーキをかけたのが輝宗でした。
それでもおさまらず、政宗は片倉景綱ら家臣を派遣して詰問しまくるのです。
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しかし、定綱は強気でした。
「この大内定綱が最も好きな事のひとつは、自分で強いと思ってるやつにNOと断ってやる事だ……戦場で決着つけようぜ、じゃっ!」
定綱のことはいいから、蘆名の話にしよう。
そう言いたくなるかもしれませんが、実は両者には関係があるのです。
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