正親町天皇

正親町天皇/wikipediaより引用

皇室・公家

戦国時代を生き抜いた正親町天皇~信長や光秀とどんな関係だった?

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改元は朝廷の一大事なれば

信長との結びつきが自然と強まっていく一方、正親町天皇と義昭との関係は少しずつ下降線を描いていきます。

元亀三年(1572年)4月、正親町天皇が義昭へ改元の費用捻出を依頼したところ、なんと一年以上も放置されたのです。

後に信長は【十七か条の意見書】で義昭の行為を咎めています。

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義昭としては

「正親町天皇と信長が結託して、自分の地位を脅かそうとしている」

と思ったのかもしれません。

ただ、将軍の立場としては、天下のことを考えなければならないもの。

特に「改元」というのは、非常に大切な取り決めです。

明治以降は一世一元の制(天皇一代につき元号一つ)となったため、現代の我々にはピンときにくいかもしれませんが、明治以前は非常に重要視されていて、いわばスケールの大きな験担ぎでした。

天災や戦乱などが多いときは、改元をして世の中の流れを良くしよう――それがセオリーであり、無視されては朝廷として立つ瀬がありません。

しかも元亀四年(1573年)になると、義昭は朝廷へ品々や資金の献上を放棄。

同年4月には信長と義昭の不和が顕在化し、信長が上京に放火まで行う事態に発展しました。

これはさすがにやりすぎで正親町天皇の勅命で和睦が結ばれますが、正親町天皇は義昭に「内裏付近へ武士を駐在させないように」と命じました。

そして同年7月。

義昭は京都を出て槙島城へ退去し、程なくして反信長の兵を挙げたところ織田軍に攻められ、人質を提出して同所から退去することになります。

実質的に、ここで室町幕府は滅亡しました。

 

正親町天皇と信長で腹の探り合い

こうして、正親町天皇は信長との結び付きを強めていく……といいたいところですが、実際にはここから腹の探り合いが本格化していったようなフシがあります。

険悪というほどではないものの、完全な協力関係ともいい難い、そんな絶妙なやりとりが続くのです。

まずは天正元年(1573年)12月。

信長から正親町天皇に対して【譲位を】申し入れたといいます。

これは正親町天皇が邪魔だからというわけではなく、本来は存命中に退位し、新しく位に就いた天皇を後見するという形が望ましいからです。

朝廷があまりに貧乏で費用面などの問題も重なったため、正親町天皇の曽祖父にあたる後土御門天皇の代から譲位は行われていませんでした。

しかし信長が言い出すからには、費用の準備も万全です。

「翌天正二年の春に、信長が譲位に伴う費用を献上する」ということで話がまとまり、正親町天皇も喜んでいたとか。

しかし実際に年が明けてみると、不測の事態がいろいろと起きてしまいました。

朝倉家を滅ぼし一度は織田家の勢力圏になった北陸で【越前一向一揆】が蜂起し、信長はその対処にあたらなければならなくなったのです。

蘭奢待の切り取りも同年に実行されています。

正親町天皇は不本意だったようなので微妙なところですが……。

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翌天正三年(1575年)には譲位の話はあまり出てこず、正親町天皇と信長は、お互いのためになるようなことをして結びつきを強めていきました。

3月には信長が公家・門跡を対象とした徳政令を発令。

8月には越前再攻略中の信長に対し、正親町天皇から陣中見舞いの勅使が派遣されました。

なんとも政治的なやり取りです。

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同年9月には、石山本願寺が三好康長・松井友閑を通じて信長に和議を申し入れています……が、これは”休戦”であって”終戦”ではありませんでした。

まあ、よくある話で翌天正四年(1576年)4月に本願寺が再挙兵しています。

これに対し正親町天皇は、信長の戦勝祈願を命じることで本願寺に圧力をかけました。

祈願がどこまで効いたか不明ながら、同年11月には神泉苑を整備し、祈祷場所として再興を狙おうと試みています。これは信長も承認しています。

 

二人は持ちつ持たれつだった?

ここまでの流れで、織田家……というか信長の影響力が確実に強まっているのがご理解いただけるでしょう。

なんと天正五年(1577年)には、正親町天皇(あるいは譲位後の誠仁親王)が安土へ行幸する予定だった……という話まであったようです。

公的な記録ではなく、公家同士の個人的な手紙の中に書かれているものですから詳細は不明ながら、譲位に関する相談等は信長との間でも行われていた可能性を感じさせますよね。

実際、正親町天皇が織田家の軍事戦略において大きなキッカケになってることは本願寺との戦いにおいてよく見えます。

というのも天正八年(1580年)に、正親町天皇による勅命講和によって石山合戦(織田vs本願寺)が終結し、実質的に織田家が勝利したのです。負けた本願寺顕如らは石山から退去することになりました。

また、織田信忠が中心となって武田家(武田勝頼)を滅ぼした【甲州征伐】の際も、正親町天皇は勅使を派遣したり、凱旋後の信長に戦勝祝いを送ったりしています。

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正親町天皇にとっても、信長にとっても。

すべてが思い通りになっていた――とは思えませんが、全体的に両者は”持ちつ持たれつ”という関係ですね。

「信長、お主も悪よのう」「いえいえ陛下こそ」なんてやりとりは……さすがにないか。

時系列が前後しますが、イエズス会の宣教師コスメ・デ・トーレスは、元亀元年(1570年)

「日本には栄典を授与する首長と、行政や司法を担当する首長がおり、どちらも都に住んでいる。

前者は”おう”と呼ばれており、その地位は世襲で、人々は彼を崇拝の対象としている」

と記しています。

彼はフランシスコ・ザビエルの後任でもあり、当時の日本をよく観察していたようです。

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この時期ですと、”栄典を授与する首長”が正親町天皇、”行政や司法を担当する首長”が信長のこととみて間違いないでしょう。

政教分離に近い状態にもかかわらず、物理的に近い距離というのは、この時代とても奇異に映ったでしょうね。

また、困窮していた戦国時代であっても、天皇が一般人にも尊敬されていたことがわかります。

このように、信長とあくまで政治的なやり取りを続けていた正親町天皇。

本能寺の変】に対する反応も、実に政治的なものでした。

 

光秀や秀吉ではなく京都の安寧が第一

天正10年(1582年)6月2日未明。

京都・本能寺に滞在していた織田信長明智光秀13,000もの軍が襲い、信長は敗死しました。

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その後、いったん近江に下った明智光秀に対し、正親町天皇は

「京都がこれまで通り安寧でいられるように務めてもらいたい」

という旨の勅使を派遣しています。

光秀もこれを了承。

しかし、程なくして光秀が【山崎の戦い】に敗れると、正親町天皇は次に秀吉へ勅使を送っています。

あくまで正親町天皇が求めていたのは京都や朝廷の安全であって、それをもたらしてくれるのならば、相手は誰であっても問題がないというわけです。

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正親町天皇の立場からすれば当然の話ですが、実にシビアですね。

秀吉が正親町天皇に本格的に接近するのは、信長の百日法要からです。

このとき「どの寺院で執り行うのが良いか、お指図をいただきたいと思うのですが」と、秀吉から正親町天皇に申し出ています。

そして正親町天皇が大徳寺を指定し、実際に法要が行われたのでした。

以降、正親町天皇は信長に対していたのと同様に、秀吉に対して勅使の派遣や綸旨の発行を行っています。

荘園の奪還を求めたり、武勇を褒めたり。

これに対し、秀吉は慎重に朝廷へ入り込んでいきました。

 

秀吉との関係構築にもぬかりなく

秀吉のどういうところが慎重だったか?

例えば、正親町天皇によって四位の大将に任じられそうになっても、五位の少将に留めてもらえるよう願い出ています。

これは正親町天皇が秀吉を贔屓し始めたというわけではなく、当時は無位無官だった秀吉がいきなり高い官位については、いらぬ反感を買いかねません。

まずは低い官位を受け、少しずつ出世させてもらうことにしたのでしょう。

秀吉は、正親町天皇の譲位と、誠仁親王の即位に関して費用等の工面を約束していたので、朝廷側にしてみれば断るわけにもいきません。

ただ、秀吉はその後、天正年間のうちに大納言・内大臣、そして関白になっていくので、結局は、強引な大出世をしています。

それを押し通せたのも、秀吉が信長に負けず劣らず、朝廷への献上品をマメに送っていたからでしょう。

それに秀吉は、信長が正式な儀式を伴う参内を一度もしなかったのに対し、毎年のように行っていました。

正親町天皇としては「朝廷の後ろ盾としてアテにできる人物」とみなしたに違いありません。後日、秀吉が病気をしたときには平癒祈願を命じたり、見舞いの勅使を出したりもしています。

それは、天正十四年(1586年)11月に、孫の和仁親王(後陽成天皇)へ譲位した後も変わりませんでした。

※息子である誠仁親王が同年7月に亡くなってしまい、その子・和仁親王が位を継いだ

小田原征伐】の際には正親町上皇・後陽成天皇がそれぞれ戦勝祈願を行っています。

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ときには秀吉が上皇・天皇をあからさまに利用するパフォーマンスをしたこともありましたが、これは信長時代とはまた違った形での「持ちつ持たれつ」といったところでしょう。そして……。

文禄二年(1593年)初頭に崩御。宝算77。

譲位からそこまでの間、正親町上皇の動向はあまり表に出ていません。

皇位継承だけでなく、後陽成天皇への実権委譲が、おそらく速やかに行われた証左でしょう。

信長や秀吉の言動については、不本意なことも多々あったと思われますが、皇室や公家を含め、京都が困窮から立ち直るために、彼らの力が必要だったのもまた事実。

そこを冷静に立ち振舞、次世代へ繋げた――。

その功績は名君と呼ぶにふさわしいものかもしれません。

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【参考】
国史大辞典
藤井讓治『天皇と天下人 (天皇の歴史) 』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
ほか

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