北条氏政/wikipediaより引用

北条家

北条氏政はなぜ最期まで秀吉に反抗したか? その生涯53年【戦国北条五代記】

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御館の乱で周辺諸国との関係がガラリ一変

氏政が同盟の縁を利用して出兵を要請したはずの武田勝頼が8月半ばに独断で上杉景勝と和議を交わし、月末に甲斐へとそそくさ帰国してしまったのです。

勝頼の急な変心は、景勝方から提示された多額の資金・領土に目がくらんだともいわれています。

が、氏政や景虎を裏切ったというわけではありません。
勝頼としては「景勝と氏政のどちらとも仲良くしていたい」と考えており、北条氏との同盟を破棄する意思はなかったようです。実際、不調に終わったものの勝頼は景虎と景勝の和睦をあっせんしており、いわば「日和見」に近い戦略を採用する運びとなりました。

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しかし、上杉景虎&北条氏政にしてみれば、味方が突如として中立を表明した形となってしまい、景虎方の劣勢が決定的なものになったと考えられています。
さらに、冬季に突入したことで、北条勢は「雪」の影響によって退路が断たれるリスクが懸念されるようになり、攻勢が大きく鈍ってしまいました…。

この機を逃さなかった景勝は翌年になると形勢を逆転。
景虎方の城を落としていき、3月には景虎が自害して御館の乱は景勝の勝利に終わります。

氏政としても、弟の危機を救えなかった以上に上杉氏との関係性を大きく後退させる手痛い敗北であったことでしょう。
加えて、御館の乱によって景虎が滅んだことにより、先の越相同盟で上杉へ譲った上野地域の領有権が北条氏に帰属すると主張したため、【この場所を景勝から譲られた勝頼】との間に領有権をめぐる不和が生じてしまいます。

結果として勝頼は氏政に対して公然と敵対するようになり、かねてより反北条の急先鋒であった佐竹氏と結んで攻撃を加えてくるようになりました。
一方の氏政も徳川家康と盟約を交わしてこれに対抗し、両家は遠交近攻策によって本格的な抗争へと突入していきます。

以上の経緯から、上杉家中に甚大な影響を及ぼした御館の乱という騒動は、彼らだけにとどまらず周辺の諸勢力にとっても非常に大きな出来事であったことがわかるでしょう。

 

信長に従属して家督を息子・氏直に譲る

勝頼との抗争はやや劣勢に進行していき、氏政は対抗策を練る必要に駆られました。
そこで彼が選択したのは協力者である家康を通じて「天下人」織田信長へ接近することであり、何度も信長のもとへ使者を遣わします。

しかも氏政は同盟を申し出たわけではありませんでした。

「あなたに従うから、ともに武田と戦いましょう」と信長への従属を願い出るものであり、従来語られてきた「プライドの高さから北条家を滅亡に追い込んだ」という氏政のイメージからはかけ離れています。
必要とあらば低姿勢な振る舞いをすることもできる柔軟さを備えていたのですね。

こうした氏政の申し出に対し、織田信長も承認。
氏政は、織田との同盟関係を第一に考え、信長の娘を正室とすることが決まっていた嫡男の氏直に家督を譲りました。

信長の娘婿をすみやかに当主とすることで、早急な関係性の構築を目指したのでしょう。

以上のように天正7年(1579年)に家督を譲った氏政でしたが、急な交代劇であり、しばらくは政治・軍事を主導しました。
かつて父・氏康に家督を譲られたときと同様の関係性が、今度は自身と息子・氏直との間でも構築され、氏政はこの後も「御隠居様」と称されて一定の権力を維持していきます。

天正9年(1581年)には武田氏の衰退が決定的なものとなり、翌年には瞬く間の電撃戦【甲州征伐】によって武田は滅亡。
織田に協力した氏政は、かねてより手を焼いてきた武田に対し、これほどまでに圧倒的な勝利を収めた織田家の恐ろしさを味方ながらに痛感したことでしょう。

しかし、です。
このタイミングで、日本を揺るがす一大事件が勃発します。

本能寺の変】です。

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本能寺の変で均衡が崩れた旧武田領

近畿・東海エリアを中心に、圧倒的勢力であった織田家の実質的当主・信長と、その嫡男・織田信忠

この両名が明智勢に討たれると、織田家の勢力下であった旧武田領でも壮絶な所領争いが起き、同地域を任されていた織田家中・滝川一益と北条氏との間で【神流川の戦い】が始まります。

勢いと地の利に勝る北条氏は、この滝川一益との戦いに勝利。
さらなる領土拡張を目指して徳川家康との間にも一戦を交えます。

しかし双方共に力を有していた大国です。
全力で戦って疲弊するより、双方が狙いのエリアを分け合った方が得策だと悟ったのでしょう。

徳川と北条の両者は、こうして最終的に和睦を選びます(天正壬午の乱)。

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この和睦をあっせんしたのが他ならぬ氏政であると考えられており、政治・軍事を氏直が主導していた時期においても、外交面では中心的な役割を果たしていたことがわかります。

武田家の旧領争いは、真田家や上杉家も絡んでいて、四方八方を敵に囲まれるより、徳川家と協力関係を築いた方が金銭的なメリットも高いと悟ったのでしょう。

 

依然として外交で存在感を発揮するも、秀吉に敗れ…

甲信越のドタバタで徳川家康と同盟を結んだ北条氏政。

その家康が、織田政権後継者の座を巡って羽柴秀吉豊臣秀吉)と対立を深めていく時期に入ると、氏政は出陣を自重するようになります。
しかし、依然として外交面を主導する役割を担っていたほか、古河公方足利氏が断絶したことによって彼らが領有していた諸地域の支配を行っていました。

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その後、北条氏と秀吉がどのように対立していったか。

家康があっせんした秀吉従属への勧めを北条氏としては受け入れたものの、氏政はこれに強い拒否感を抱きました。

「この決定は了承できない!もう政務など知ったことか!」
と実質的にも政務を放棄する形で隠居し、家中の分裂を招いてしまうのです。

しかし、天正17年(1589年)には冷静になったのか。
政務に復帰し、秀吉が命じた上洛の指示を受け入れる姿勢を表明しました。

氏政としては折れた形ですが、自身が上洛すれば最後であり、身柄の拘束や国替えの心配をした氏直が上洛を引き延ばしにかかります。しかし……。

 

難攻不落の小田原城、陥落

時間稼ぎをするような、北条氏直の姿勢が秀吉を激怒させてしまいました。
小田原攻め(小田原征伐)を決断したのです。

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かつて謙信・信玄でさえも落とせなかった難攻不落の小田原城
当初は豊臣軍を迎えうつ気まんまんの北条氏でしたが、圧倒的な兵力差の前になすすべはありません。

籠城は、城以外の外部勢力から援軍を得られないと勝利は非常に厳しく、このときは諸侯・諸国からの味方はほとんど期待できない状況です。

北条方の城は次々に落とされ、ときに開城を余儀なくされ、戦を主導した北条の権力者たちは降っていきます。そして……。

ついに小田原城も陥落しました。

第一に責任を問われたのは、おそらく当主の北条氏直でしょう。
しかし氏直は、開城の際に「自分の命と引き換えに家臣ら全員の助命を申し出たこと」で秀吉の心をつかみ、高野山追放で済み、処刑を免れています。

とはいえ秀吉の立場も決してお気楽ではありません。

自分に逆らった者たちを見せしめに処刑しないと、いつまたドコかでで反乱が起きないとも限らない。

そこで氏直の代わりに処刑対象として浮上したのが、北条氏政・北条氏照兄弟と大道寺政繁、松田憲秀といった重臣たちと見てとれます。

この中でも氏政は家康によって助命が嘆願されており、彼の家臣である井伊直政は「氏政の助命は実現しそうだ」と考えているほど微妙な判断となったようです。

しかし、結果的に秀吉の許しを得るには至らず、切腹を命じられました。
享年53。

 

氏政はなぜ秀吉に従わなかったのか

晩年における氏政の「反秀吉」的な思想は誰の目にも明らかであり、古来より「なぜ氏政はこれほどまで秀吉への従属を拒んだのか」という問題は議論されてきました。

まず一般的な解釈として挙げられてきたのが【氏政無能説】です。

情勢をうまく判断できない上に、プライドばかりが高くてダメな奴――確かに晩年における彼の振る舞いは秀吉を軽んじているように見え、時流を読み切れていなかったと言われてしまうのはやむを得ないでしょう。

しかし、秀吉と対立したこの時期だけを切り出して「氏政はとにかく無能」という判断を下してしまうのは早計に思えます。
上記においても、彼が謙信や信玄を代表とする戦国関東の猛者たちに対して綱渡りのような軍事・外交を展開してきましたし、氏康の悲願であった関宿城を攻め落としたのも事実。

加えて信長の圧倒的な戦力を即座に見抜いて従属したことも評価に値しますし、その際の鮮やかな対応を考えれば、とても凡愚の将とは思えません。

また、氏政の無能ぶりを象徴するとされる「汁かけ飯」の逸話ですが……。

【汁かけ飯】氏政が米に汁を二度かけた際、それを見た氏康が「一度でかけるべき汁の量も図れないとは…。北条は私の代で終わりかもしれない」という感想を漏らした、というエピソード。

「氏政が北条氏を滅ぼした暗君である」という風潮が生まれた後年になって創作されたものと考えられており、やはり彼のすべてを否定する判断材料としては弱いでしょう。

他にも「反秀吉」となった理由は色々と提示されています。

東国武士団特有の独立的思考

秀吉が初めから北条氏を許す気はなかった

有力大名が中央政権と対立するのは当然で、徹底抗戦してしまったことこそが問題

いずれにせよ「なぜ氏政が秀吉を拒んだか」という疑問について、現状、発見されている史料から氏政の真意を確定させることは不可能です。

本能寺の変や山崎の戦い小牧・長久手の戦いなど。
当時は誰にも想像し得ない突発的事象が頻発しました。

織田家中でも幾人もの武将が滅亡へと追いやられており、非常に難しい舵取りが要求される中、結果的に北条氏も滅亡への道を歩んでしまった。

北条氏政に同情の念を抱かずにはいられません。

文:とーじん

【参考文献】
国史大辞典
『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
『戦国北条家一族事典(戎光祥出版)』(→amazon
『戦国北条五代(星海社)』(→amazon)

 



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