瀬戸方久

井伊家

戦国東海商人伝・瀬戸方久~今川と徳川に取り入った元武士の手腕とは

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徳政令に反対するのは、井伊直虎と、金の貸し手でもある瀬戸方久。

一方、推進派は今川氏真と祝田禰宜、さらに井伊家の権力基盤を虎視眈々と狙っていた小野政次

小野政次(直虎のライバル)が権力争いで奪い取った天下は34日で終了した

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両者の主張は拮抗しつつも、次第に直虎と方久はこれに抗うことができず、ついに直虎は地頭職を解任され、永禄11年(1568)11月9日、「徳政令」は施行された。

同時に家老の小野政次が井伊谷城主にも就いた。

 

家康の遠江侵攻に際し、いち早く協力を申し出る

瀬戸方久が商家たる所以はここからであろう。

徳政令の実施によって損害は被ったが、領主が井伊氏であろうが小野氏になろうが、自身の所領は上級権力者の今川氏真から安堵されている。

商売を続けられれば何も問題ない……ハズであった。

───このとき事態は一変する。

永禄11年(1568)12月、徳川家康が遠江国へ侵攻してきたのだ。

徳川家康
徳川家康 史実の人物像に迫る!生誕から大坂の陣まで75年の生涯 年表付

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もたついている暇はない。

瀬戸方休は、賭けに出た。

方久は家康の侵攻に際し、徳川軍が地元の都田川を渡るとき、渡河点(浅瀬)を教え、さらに家宝の刀(銘「千寿丸重船」)を献上したのである。

家宝の刀を徳川家康に献上する瀬戸方久(方休)/国立国会図書館蔵

彼が武士ではなく商家ならではなのだろう。

家康は方久の対応をいたく気に入り、「瀬戸」の苗字と「御證文」を授けたという。

それが以下の「徳川家康安堵状」である。

ポイント

於井伊谷所々買得地之事
一上都田只尾半名 一下都田十郎兵衛半分(永地也)
一赤佐次郎左衛門尉名五分一 一九郎右衛門尉名
一祝田十郎名 一同又三郎名三ケ一分
一右近左近名 一左近七半分
一禰宜敷銭地 一瀬戸平右衛門尉名
已上
右条々、如前々領掌不可有相違、并千寿院・同重力ニ借預候任一筆、可有催促之、若於有難渋者、公方人以可有其沙汰者也、仍如件、
永禄拾弐己巳年 八月三日
家康
瀬戸方久

 

豪商へと成長を果たす――まさしくそのときに

かくして井伊家の政商とも言える存在であった瀬戸方久は、徳川家康に保護され豪商へと成長を果たす――と思われたその途中で亡くなってしまう。

死期は、永禄年間(1558~1570)初期に始まった方広寺三重塔が「二重まで建てられた頃」であっただろうと推測。

原文は記事末に掲載させていただくが、『奥山家古代記』や『東海之名刹方廣寺』にその記述が残されている。

実際、1570年以降の瀬戸方久に関する史料は無い。

家康に認められ、まさに「これから」という絶頂期に絶命したのであった。

方広寺の三重塔(瀬戸方休と堀尾室の建てた三重塔は焼失し、現在の三重塔は山口玄洞が再建したものである)

以下の写真は、元禄年間(1688-1704)に曾孫が建てた方久夫妻の供養塔である。

瀬戸氏宅(瀬戸方久屋敷跡)の供養塔

墓石に記された文字は「曾祖 遠峯方久祖月嶺方心/曾祖妣 松渓貞壽媽居林芳桂 塚」。

現在は瀬戸方休の後裔が供養しておられる。

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著者:戦国未来

戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。

モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。

公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」

https://naotora.amebaownd.com/

Sengoku Mirai s 直虎の城

※瀬戸方久の死が記されたと思しき史料

「三重ノ塔ハ永禄ノ始、瀬戸方久居士施主、二重迄建立ノ処死去故、三十年の後、堀尾帯刀婦人、志ヲ続テ三重九輪成就ス。」(『奥山家古代記』)

「永禄年中方久居士三重寶塔を建てんとして二層に及び俄然物故し、其の志を嗣ぐものがなかつた、然るに寶暦年中堀尾某深く願主の志を憐み、淨資を喜捨して遂に落成し、佛舎利を安置せしも、明治初年火災の爲燒失。大正十一年八月、故間宮英宗猊下發願の下に、故山口玄洞氏淨財を投じて建立、同十二年八月竣功、朱楹碧櫺中空に聳えて居る。」(『東海之名刹方廣寺』)

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