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【鵜殿長照】
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三河で争う元康と長照
今川義元を失った今川家――家臣や国衆には大きな動揺が走りました。
主家を見限るか、否か。
三河を本拠とする者の間でも対応は分かれ、松平元康(徳川家康)は離反、鵜殿長照は今川に留まります。
以降、長照は今川方として元康と対峙し、小競り合いを繰り返すのです。
戦いは、次第に元康が勢力を強め、長照は足踏み状態に陥りました。
義元の母・寿桂尼や氏真の引き締めにより今川も踏ん張ってはいるものの、いかんせん義元を失った斜陽の流れに歯止めが効かず、長照配下の者たちにも不満が溜まっていったのでしょう。
寿桂尼(義元の母)は信玄にも一目置かれた今川家の女戦国大名だった
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そして永禄5年(1562年)、元康は自ら軍を率いて、上ノ郷城を攻撃。
このとき固い守りを崩すべく、元康は甲賀衆に火計を用いさせ、攻め滅ぼしたとされます。
そして、この城攻めの最中、長照は討死を遂げました。
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今川に殉じた兄と妹
家康との対戦に敗れた上ノ郷城の鵜殿一族は、長照の二子である氏長・氏次が敵方に捕縛されました。
そして以前から囚われていた家康の妻子(瀬名・松平信康・亀姫)らと交換され、今川氏の元へ戻ります。
それから6年後の永禄11年末(1568年)。
松平元康改め徳川家康が満を持して駿河へ侵攻すると、鵜殿氏も徳川に従属する道を選んだのでした。
長照の弟・長忠は家康に出仕して柏原一庵と改名、鵜殿氏を存続させます。
この系譜は鳥取藩家老として残っています。
なお、鵜殿長照の妹とされるお田鶴の方は、最後まで家康に抵抗し、城を枕に討死を遂げることとなります。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
大石泰史『全国国衆ガイド 戦国の‘‘地元の殿様’’たち』(→amazon)
有光友學『今川義元(人物叢書)』(→amazon)
他