後藤又兵衛基次

後藤又兵衛基次(右)と黒田官兵衛/wikipediaより引用

黒田家

黒田家の猛将・後藤又兵衛基次はなぜ大坂に散った?56年の生涯まとめ

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「俺の家が一番大変な時に離反しやがって」

天正6年(1578年)、官兵衛は織田信長に背いた荒木村重によって、有岡城に幽閉されてしまいます。

このとき、残された官兵衛の夫人・櫛橋光、そして黒田家家臣一同は結束を強めます。

主君がどうあれ、我々はしっかり留守を守ろうというスクラムです。

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しかしこのとき、誓紙への署名を又兵衛の伯父・藤岡九兵衛が拒み、又兵衛もこれに従うのです。

又兵衛、このときまだ二十歳前。

父は病死しており、伯父の意向には逆らえなかったのでしょう。

しかし、そんな言い訳が通じるわけもありません。

伯父ともども、又兵衛は一族追放処分を受けてしまいます。

又兵衛は、豊臣秀吉の配下であり、マンガ『センゴク』でも知られる仙石秀久に仕官しました。

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ちなみにこの官兵衛の幽閉時、当時まだ松寿丸と名乗っていた長政が、大変な目に遭っております。

村重と共に官兵衛も織田を裏切ったとみなされ、その子までもが謀反人として首を要求されたのです。

このときは、官兵衛の盟友とされる竹中半兵衛の機転により、松寿丸は一命をとりとめております。

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ゆえに又兵衛に対しては官兵衛が許したとしても、長政として釈然としないのも仕方ありません。

「俺の家が一番大変な時に離反しやがって」

そんな風に思うほうがむしろ自然ではないでしょうか。

 

黒田家臣としてカムバックを果たす

又兵衛は、勇猛な武将でした。

彼の新たな主君である仙石秀久は、豊臣家の武将として九州征伐に参戦。

しかし、勇猛で知られる島津家を前に【戸次川の戦い】で大敗してしまいます。

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長宗我部元親や信親ら親子も、仙石による判断ミスの巻き添えに遭ったとして知られる戦いですね。

このあと天正14年(1586年)頃から、又兵衛は栗山善助利安の与力として、黒田家に復帰するのです。

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黒田家としても、有能な又兵衛は是非復帰して欲しいところ。

過去のことは水に流して、うまくやろうじゃないか、となったわけです。

確かに又兵衛は強かった。

九州征伐、朝鮮出兵、そして関ヶ原の戦いまで、又兵衛はその豪勇ぶりを遺憾なく発揮します。
そして、大隈城(益富城)城主として、16,000石の所領を与えられたのです。

大出世です。素晴らしい!

しかし、主君である長政の胸の奥底には、又兵衛への屈折した思いがくすぶっておりました。

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上の記事にもある通り、戦闘中、水中に転落した長政を放置することがありました。

又兵衛にも言い分はあるのでしょうが、長政にすれば、

「主君が死にかけているのに放置って、さては逆らう気だなオメー」

となっても仕方のないところです。

幼い頃は、官兵衛の元で育った二人。官兵衛としては、長政にとって兄のような存在を育てた気であったかもしれません。

しかし、完全に裏目に出ました。

 

「奉公構≒絶縁」という重すぎる処分

慶長9年(1604年)、又兵衛が薫陶を受けた官兵衛が世を去ります。

徳川幕府が成立し、世の中から荒々しさ、戦が消えてゆく、太平の世が始まったばかりでした。

「待っていたぜ、この時をよぅ!」

そう言わんばかりに、長政は又兵衛を追放することにします。

功臣であったにせよ、様々な言動が長政のカンにさわったのでしょう。

又兵衛は、長政と犬猿の仲であった細川忠興と交際する等、神経を逆撫でするような行動をとり続けていたのです。

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まぁ、ここまでは、よくあるわけじゃないけど、わからなくもない話。

切腹させるよりは、マシかもしれません。

問題は、追放に【奉公構(ほうこうかまい)】というオプションをつけたことです。

奉公構とは【コイツがやって来ても、絶対に仕官させないでください! 仕官させたら黒田家とはケンカということで!】と、他家に宣言することです。

わかりやすく言いますと、勤務先をクビにしたうえに、再就職に歯止めをかけるという、社会的に殺しに来る行動でした。

又兵衛ほどの武勇の持ち主ならば、他家でも引く手あまたでしょう。

しかし、長政はそれすら許さなかったのです。

慶長11年(1606年)、又兵衛は黒田家のある筑前を立ち退きました。

その後、池田輝政のもとに落ち着くのですが、長政は目を光らせています。

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「うちをクビにした後藤又兵衛、おたくにいますよね? なんで勝手に匿っているんですか?」

そうクレームをつけました。そして……。

又兵衛は慶長16年(1608年)、池田家を離れることになります。

長政、ちょっと大人げないですよね。

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