後藤又兵衛基次

後藤又兵衛基次(右)と黒田官兵衛/wikipediaより引用

黒田家

黒田家の猛将・後藤又兵衛基次はなぜ大坂に散った?56年の生涯まとめ

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「大坂の陣」に参戦

しかし、長政だけ責めるというのも酷というもの。

又兵衛にもそれだけの非はありました。

池田輝政だけではなく、よりにもよって長政と不仲の細川忠興のもとにも身を寄せたことがあったのです。

慶長16年(1608年)には、見かねた徳川家臣・成瀬正成らが、長政への帰参斡旋をしたこともありました。

しかし、結局失敗に終わってしまいます。

そうこうしているうちに、江戸と大坂の間で不協和音が響き始めます。

そして慶長19年(1614年)、大坂の陣の火蓋が切って落とされました。

又兵衛は、浪人として大坂に身を落ち着けました。

そのあとを黒田家が探索してきて、又兵衛の子を捕縛します。

豊臣秀頼は、浪人であろうと、大坂に住むものはわが民である――と基次父子を庇いました。

又兵衛が大坂方に馳せ参じたのは、その恩義ゆえともされます。

あるいは、腕のふるいどころ、はたまた死に場所を求めてなのでしょうか。

又兵衛のような浪人は、当時不満を抱えていました。

食い詰めており、腕を見せる機会もない。

そんな浪人たちにとって、大坂方は晴の舞台です。

元は豊臣恩顧であっても、大名やその家臣で大坂方についたものは、ほとんどおりません。

忠義を見せるためというよりは、生きてゆく場所を失い、追い詰められて、集ってきたのです。

そんな中でも、際だっていたのが又兵衛を含めた以下のメンバーです。

真田信繁九度山に蟄居中だった真田昌幸の子)

・毛利勝永(関ヶ原の戦いで敗北、改易)

長宗我部盛親(関ヶ原の戦いで敗北、改易)

・明石全登(元宇喜多秀家家臣、キリシタン)

失うものは何もない、そんな浪人たち。

一方で攻め手の東軍は、15年間という実戦ブランクのせいか、ありえないような恥ずかしいミスを連発してしまいます。

数の上では優勢なのに、無様な崩れ方や味方討ちをしてしまうこともしばしば。

又兵衛は、秀頼家臣の木村重成とともに鴫野・今福を守備。上杉景勝・佐竹義宣勢と対峙しました。

このとき、佐竹義宣の軍勢を大いに破り、名をあげます。

摩利支天の再来――。

人々はそう賞賛したのです。

又兵衛は猪突猛進だけの将ではありません。

茶臼山にいた徳川家康への狙撃を止めて、二心があるのではないかと疑われています。

もしここで、家康を狙撃するようなことがあれば決裂は決定的でしたから、その判断は正しかったのではないでしょうか。

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衆寡敵せず――大坂夏の陣に散る

又兵衛はじめ、真田信繁らが華々しい活躍を遂げた【大坂冬の陣】。

一旦講和したものの、翌年には早くも講和が破れてしまいます。

こうして始まったのが【大坂夏の陣】です。

ただ、この再戦にあたって、大坂城は講和の際にほぼ無力化されており、苦戦は必至でした。

又兵衛は、真田信繁らとともに積極的に討って出る策を提案。

家康が住吉に着陣する日に夜襲を仕掛ける奇襲戦法を提案します。

しかし、大坂城の首脳部である大野治長らは消極的であり、反対されてしまうのでした。

又兵衛は、大野治長の元で戦うことになりました。

実戦経験の乏しい治長に、又兵衛は献策します。

「数で劣るからには、開けた地形で戦うには不利です。高低差のある山岳で、勝負を仕掛けましょう」

又兵衛は、秀頼から「大和口」の先手を命じられます。

そして、河内道明寺に兵を進めました【道明寺の戦い】。

しかし、当初予定していた国分村は、既に徳川方先鋒・水野勝成が率いる部隊が進出していました。

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やむなく次善策として、小松山に布陣。寡兵ながらも健闘し、賞賛を浴びます。

が、又兵衛の後が続かないのです。

後詰には、後続の薄田兼相、明石全登、真田信繁らの軍がおりました。

彼らが駆けつけようとしたとき、濃霧が発生。

一方で、敵の伊達政宗の重臣・片倉小十郎が指揮を執る鉄砲隊が到着します。10倍以上という圧倒的な火力に叶うすべもありません。

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又兵衛は最期の咆哮をあげるように突撃を繰り返し、乱戦の中で命を落としました。

享年56。

又兵衛の子は、慶安2年(1649年)、大坂の代官所に捕縛されたと伝わります。

 


又兵衛の人気が長政の人気も下げた?

「大坂の陣」に散った後藤又兵衛、真田信繁らは、後世の人々にとって叛骨のヒーローとしてもてはやされました。

彼らに喝采を送ることは、徳川政権にぶつけられる不満のガス抜きにもなっていたのです。

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その過程で、又兵衛の前半生における武功も強調され、愛されました。

割を食ったのが、彼の元・主君である黒田長政です。

確かに長政は、性格的に問題が無いとは言い切れなさそうです。

が、戦国~江戸時代初期には、個性豊かなれど人格的にどうか?という方も多々おります。

酔っ払って家臣をブン殴ったり、様々な問題行動を起こした伊達政宗さんとか。キレやすい細川忠興さんとか。

一方で長政。
大人げなく陰湿、酷いときは短絡的で愚かという印象すら受けてしまうのは、一つ目に父・黒田官兵衛が偉大過ぎること。

そして二つ目は「後藤又兵衛をねちっこくいじめた挙げ句、再就職を阻んだパワハラ上司」という印象があるからでしょう。

そこは冷静に考えてみたいものです。

又兵衛にも、大人げない振る舞いはあったのです。

もし又兵衛が出奔せず、黒田家臣として一生を全うしていたら――大坂の陣で散ることもなく、知名度も今より低かったことでしょう。

散り様で人気を呼んだ、熱い猛将でした。

又兵衛が落ち延びたという伝説のある大宇陀本郷にある又兵衛桜(奈良県宇陀市)


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文:小檜山青

【参考文献】
『国史大辞典』
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
ほか

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