黒田官兵衛

黒田官兵衛/wikipediaより引用

黒田家

黒田官兵衛は本当に天下人の器だったか?秀吉の軍師とされる生涯59年まとめ

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黒田官兵衛
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秀吉の天下取りと官兵衛

本能寺の変と言えば、結果的に秀吉を大出世させた一つの大きな契機でもあります。

軍師官兵衛の各作品にとっても、中盤のハイライトになるでしょう。

官兵衛は「秀吉こそ次の天下人である!」と進言、毛利との和睦から、中国大返しを提言したというものです。

イメージとして強く根付いており、フィクションでは必ずや見せ場になりましょう。

ただ、残念ながら史実かどうかは疑わしく……当時の情勢は混沌としており、そこまで断言できる材料はなかった、と見なすほうが妥当です。

いずれにしても秀吉伝説の一つ【中国大返し】を見ないワケにはいきません。

本能寺の変を知った秀吉が、急遽、毛利氏との和睦を取り付け、畿内へ向けて軍を反転。200kmもの道のりを10日間で突き進み、山崎の戦い明智光秀を倒した――というものです。

あまりに鮮やかで面白すぎるお話ですが、この逸話は色々と割引して考えねばならないところもあります。

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例えば、この道中、官兵衛は姫路から人を派遣し、事前に食事を用意していた、なんて話もあります。

しかし、そこまでの余裕があったとはさすがに考えにくい。多少は可能だったでしょうが、道々に、松明やら握り飯まで用意していたという話となると、さすがに出来過ぎでしょう。

中国大返しで官兵衛は、殿(しんがり・最後尾)を務めていたという指摘もあり、畿内へ進むことよりも、むしろ毛利の追撃に注意を払っていたフシがあります。

毛利とは和睦を結んではおりましたが、100%信じ切って背後を攻められたら、明智光秀との合戦どころじゃありませんので……。

太陽の子・秀吉も。

天才軍師・官兵衛も。

とかく創作が特盛りになりがちで実態がわかりにくい――この一件に関しては通常の進軍だったのでは?と考えたほうが自然でしょう。

ただし、秀吉が天下人として台頭してゆく過程で、官兵衛が武功をあげていることは確認できます。

山崎の戦い、賤ヶ岳の合戦でも出陣しており活躍。

明智光秀と柴田勝家を討ってから、

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この先しばらくは秀吉の軌跡と重なり、天下統一作業へ突き進みます。

年表に従いながら進めましょう。

 

山崎の戦いから九州平定まで

九州平定後まで一気に記します。

【茶色の見出し部分】だけ確認しても問題ありません。

◆1582年 山崎の戦いで明智光秀に勝利

→秀吉軍4万に対し明智軍は1万6000(太閤記)。

官兵衛は激戦となった中川清秀軍を補佐し、勝利に貢献した。

毛利の牽制を期待していた明智の予測を裏切り、中国大返しを成功させたのが大きな勝因であり、毛利に対する交渉・殿を務めた官兵衛の功績が光る。

秀吉は山崎城を築いて周囲に対する牽制をはかった。

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◆1582年 清州会議で三法師を擁立

→石高では秀吉が柴田勝家を上回る。

しかし、近江の要・長浜城やお市の方を渡すことになり、実は一人勝ちでもなかった。

天下の趨勢はまだまだ見えない(そうでなければ後の賤ヶ岳の戦いもない)。

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◆1582年 織田信長の葬儀in大徳寺

→信長の葬儀(百カ日法要)を実施。

遺体の代わりに香木を2体用意、1体を祀り(木造織田信長坐像が現存)、1体を火葬するというもので、7日間かけて行われた。

かなり大規模なもので参列者は3000人にのぼり、それに伴う警護の兵が3万人も用意されたのは、やはり対外的なアピールが重視されてのことだろう。

信長の息子たち(織田信雄織田信孝)は招かれず、同様に勝家も出席せず。

賤ヶ岳の戦いへと繋がっていく。

◆1583年 賤ヶ岳の戦い

→秀吉vs勝家は、両軍共に、強固な砦の設置で戦線は膠着。

そんな中、鬼玄蕃と称される猛将・佐久間盛政の奇襲で中川清秀軍が崩壊する。

続けて攻撃された官兵衛軍がこれを凌ぎ切り、岐阜へ向かうと見せかけていた秀吉本隊が戻ってくると形勢は一気に逆転した。

柴田勝家は、信長の妹で妻であるお市と共に自害。

三姉妹(茶々・初・江)は秀吉に引き取られ、長女の茶々が後に側室となって豊臣秀頼を生む。

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◆1583年 大坂城の築城開始

→官兵衛が工事責任者となり6万人を動員、約15年の月日をかけて完成させる。

※築城や街づくりは得意だったようで、後に戦乱で荒れた博多を復興させたのも官兵衛だった。

◆1584年 小牧・長久手の戦い

→秀吉(10万)vs徳川・織田信雄(3万)の戦い。戦力的には秀吉方が圧倒的に有利だった。

開戦当初の官兵衛は、大坂で居留守役も、息子の黒田長政が参戦、岸和田の戦いなどで戦功を挙げる。

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小規模な戦いがいたるところで起きたこの戦いは、最終的に織田信雄を取り込んだ秀吉の政治的勝利に終わった。

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◆1585年 紀州征伐

→かつて石山本願寺に立て篭もり、織田信長を震撼させた鉄砲集団・根来&雑賀衆を物量戦で征伐する。

しかし、独立気風がことのほか強い土地柄で、その後、一気が勃発。

あまりにも反勢力の蜂起が激しく、他に先駆けて「刀狩り」が行われた。

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◆1585年 長宗我部元親が降伏

→四国攻めの官兵衛は、蜂須賀正勝と共に検使として渡り、阿波へ侵攻すると諸城を次々に陥落。

長宗我部元親は降伏せざるを得ない状況となり、四国全域から土佐一国の知行に減ぜられた。

戦後、伊予で知行の配分にあたっていた官兵衛は、この後、四国・中国軍を率いて九州攻めに進むことになる。

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◆1586年 秀吉、太政大臣に就任

→正二位内大臣に叙任されていた秀吉は(正二位は信長と並ぶ位階)、近衛家の養子となって前年の1585年に関白就任。

翌年、太政大臣となって、まさに位人臣を極める(臣下として最高位となる)。

この後、官兵衛は従五位下・勘解由次官の官位を得た。

◆1587年 九州平定

→この時点で秀吉に従っていない大勢力は、

・九州の島津氏
・関東の北条氏
・東北の伊達氏ら(最上は早くから通じる)

だった。

真っ先にターゲットとしたのは、このままでは「九州全域を支配するのではないか?」という勢いの島津家でした。

大河ドラマ『西郷どん』でお馴染み薩摩藩の前身で、この頃は島津義久島津義弘島津歳久島津家久の島津四兄弟が同地方を席巻。

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そこで、今にも潰されそうな大友家が、秀吉に救いを求めたのです。

緒戦となる「戸次川の戦い」で、仙石秀久や長宗我部元親を打ち破った島津に対し、秀吉は20万の大軍を派兵しました。

官兵衛は、豊臣秀長総大将の軍監として豊前国(福岡県・大分県にまたがる九州の玄関口)へ渡ると、先鋒隊として次々に城を落としていきます。

そして島津義久とも直接戦い、勝利しており、ほどなくして島津は降伏。

いくら精強で知られる薩摩でも、秀吉が自ら指揮する20万の大軍に敵うハズはありませんでした(島津は2~5万との見立て)。

※なお、戦乱で荒れ果てた博多の復興を官兵衛が担ったのは、この九州平定の後

 

九州豊前入部

天正15年(1587年)の九州平定後。官兵衛は豊前国の中の6郡(ただし宇佐郡半郡は大友吉統領)、12万石(太閤検地後は17万石以上)を与えられました。

これを受けて、中津城の築城に着手します。

平定されたとはいえ、九州はまだまだ不安定な地です。

秀吉にしてみても、難しい統治を任せるのは官兵衛しかいない――と考えた可能性は高そうです。

実際、官兵衛が厳しい掟を制定、現地の統治運営に乗り出したところ、いきなり宇都宮氏一族による一揆が発生しまてしまいます。

もともと大友氏の家臣であった宇都宮鎮房(城井鎮房・きいしげふさ)は、伊予国への転封を拒否し、改易されておりました。

その鎮房が挙兵し、大規模な反乱となったのです。

宇都宮鎮房/wikipediaより引用

この宇都宮氏の反乱は、官兵衛の手を穢れた血で染めたものといっても差し支えはないでしょう。

息子を人質に出した鎮房を合元寺に呼び出し、黒田長政が謀殺したとされておりまして。合元寺の壁が真っ赤に染まったのは、長政の配下が宇都宮家臣を惨殺したため――との伝説が現在も残っています。

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鎮房は娘・鶴姫も人質として黒田家に預けており、父の死後、磔刑にされたと伝わります。

鶴姫の悲劇は、『斑雪白骨城』として歌舞伎の題材にもなりました。

それだけ宇都宮氏の反乱の勢いが強く、なかなか抑えつけられなかったということなのでしょう。

天正17年(1589年)、官兵衛は家督を長政に譲りました。

齢50を前にしての行動であり、後世、様々な憶測がなされていますが、当主が早めに家督を譲ることはそこまで特異とも言えないでしょう。

伊達輝宗北条氏政らも早めに家督を譲っています。

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そして天正18年(1590年)、官兵衛はキリスト教に入信します。

洗礼名は「ドン・シメオン」。シメオンは人の話をよく聞く、耳を傾けるという意味で、ブルガリア王にも同名の名君がいます。

ただし、キリスト教禁教令以来、黒田家は官兵衛の信仰を抹消したがったため、記録にはあまり残されなかったようです。

黒田如水の印章/Wikipediaより引用

 

小田原征伐での和睦交渉

2014年大河ドラマ『軍師官兵衛』。初回のアバン(オープニング前の導入シーン)は、官兵衛が小田原攻めで和睦交渉に向かう場面でした。

全国でも知られる難攻不落の城を舞台に、官兵衛本人が立てば、ドラマとしても盛り上がる。

最初から、本人に箔を付けたかったのかもしれませんね。

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実際の小田原征伐(1590年)における官兵衛は、息子の長政と共に親子で参陣。官兵衛は北条氏照の備を落とし、褒美として太刀を与えられています。

さらには小田原城を守る太田氏房を説得して北条氏政・北条氏直親子との交渉を開始、結果的に和睦へ持ち込むという手柄を立てます。

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まだまだ意気盛んであり、秀吉からも大いに期待されていたことがおわかりでしょう。

このような重要な役割を任されたということは、官兵衛の智謀が際立っていたことの証拠でもあります。

彼の活躍は荒唐無稽な潤色も多いのですが、それを差し引いたところで、こうした活躍を見て行けば、十分に優れた武将であったことがわかります。

おそらくこの小田原征伐が、官兵衛と豊臣政権にとって、最後の蜜月時代と言えるステージではないでしょうか。

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