黒田官兵衛

黒田官兵衛/wikipediaより引用

黒田家

黒田官兵衛は本当に天下人の器だったか?秀吉の軍師とされる生涯59年まとめ

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朝鮮出兵で三成と対立

文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は、官兵衛にとって厳しいものであったと考えられます。

肥前名護屋城の縄張りに始まり、半島に渡っての激戦。

戦線は膠着し、慣れぬ異国での戦いで、官兵衛は重病を罹ってしまいます。

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このころ出家しているのは、精神的に限界に近かったせいかもしれません。

結果的に、官兵衛にのしかかるハズの負担は、息子の長政へ重たくのしかかっていきました。

それが豊臣政権破綻の一要因になっていたかもしれない。ということに秀吉は気づきもしなかったでしょう。

本来なら、同政権の若手グループで中心となるはずの長政が、石田三成に対して憎悪の感情を抱くようになるのです。

無謀な出兵は、確実に武将たちの心を蝕み、亀裂は拡大していきました。

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そして、秀吉、没。

いよいよ情勢は混沌としてきます。

石田三成に対して敵意を持つように至った黒田長政は、慶長4年(1599年)、三成を襲撃する七将に名を連ねるにまで至ります。

さらに黒田家は、進んで秀吉の遺言を破るようなことをします。慶長5年(1600年)、家康の養女である栄姫と長政が結婚したのです。

これはもう豊臣から徳川へ乗り換える明確な宣言にも似た行為でした。

なぜなら、このとき長政が離縁を申し付けた前の正妻というのは、かつて秀吉とスペシャルマブダチな間柄だった蜂須賀正勝(小六)の娘だったからです。

間もなく関ヶ原が迫っておりました。

 

天下分け目と黒田父子

慶長5年(1600年)、会津討伐に徳川家康が向かった背後で、石田三成が挙兵します。

天下分け目の関ヶ原。

官兵衛および長政の妻は、その開戦前に無事大坂を脱出し、事なきを得ています。

一方の黒田父子は、別々に行動することとしました。

石田三成と厳しく対立してきた長政は、東軍の将として関ヶ原に参陣、家康とともに西上します。

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関ヶ原のころ、官兵衛は九州におりました。

このとき毛利輝元の家臣・吉川広家に対し、毛利輝元を支持する内容の書状を出しています。

官兵衛はそこで、四国・九州の大名から人質を取るように提案。九州の大名が味方するはずだと述べております。

このあたりややこしく、一見、官兵衛が毛利に味方する=西軍であった、かのように思えるのですが。吉川広家は、西軍につくことに反対しており、毛利家の中にありながら東軍として行動していたわけです。

つまり官兵衛は【西軍の総大将である毛利家において、立場的に東軍である広家を支持する】という、複雑な状況で東軍を支えていた、ということになります。

関ヶ原において、官兵衛は見事に九州を切り取り回りますが(後述)、これも【自分で天下を取るため】ではなく、【切り取ったぶんをもらえると家康から約束されていたから】が、動機としては考えられます。

伊達政宗の場合と同様です。

官兵衛にせよ、政宗にせよ、関ヶ原での動きを彼ら自身の天下取りと結びつけられますが、純粋な領土欲による奮闘と考えたほうが自然です。

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しかし黒田父子は、広家相手の工作になかなか手間取ったようです。あれだけ手を尽くしておきながら、毛利輝元に大坂城へ入られてしまったのですから、かなりの焦りを感じていたことでしょう。

広家自身も「西軍ワンチャンあるかな?」と流されつつあったのです。

ここで官兵衛は、二人で広家の説得を試みています。

「家康は確実にあなたのいる西に向かいますよ。とても心配ですね。落ち度がないよう、日頃から気を遣うべきです。上方の武将も、皆家康につくのですから、孤立しかねないあなたが心配です。あなたが心配です」

広家が心配でたまらないな、と言いつつもやんわりと脅すような、そんな書状を送っているのです。

官兵衛の関ヶ原といえば、九州を席巻する様子が描かれます。実際にはそれ以上に、毛利家内部工作の方が重要かもしれません。

 

寝返り工作を行う黒田父子

さて、長政のほうは。

関ヶ原の戦い前夜、小早川秀秋を説得しておりました。

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秀秋の家臣に平岡頼勝というものがいました。ちょっとややこしいのですが、彼と黒田家は関係があります。

長政の伯母(櫛橋光の姉)は上月十郎の妻です。上月十郎と櫛橋氏の間に生まれた女性が、平岡頼勝の妻にあたるのです。

つまり、長政にとって母方の従姉の夫が、平岡頼勝になるわけです。

秀秋の家臣である河村越前之正は、かつて井上平兵衛と名乗っており、黒田家臣・井上九郎右衛門の弟でした。

長政はこの関係に目を付け、早くから秀秋の調略におよんでいたわけです。

ご存じの通り、関ヶ原の戦いは一日で終わります。

小早川秀秋は裏切り、毛利家は弁当を食べているという見え見えの弁明をして動きませんでした。

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関ヶ原の戦いにおいて、黒田父子が働きがいかに大きかったか、おわかりいただけたでしょうか。

父・官兵衛と比較され、偉大な父に対して凡庸な息子とされることもある長政。実際にはそんなことは決してなく、知略に優れた人物であることもわかります。

関ヶ原後の恩賞で優遇され、大大名にまでのしあがったのも納得できる話です。

黒田長政/絵・富永商太

吉川広家側も、官兵衛との交渉をうまく利用しました。

関ヶ原の後は【毛利家をそそのかした安国寺恵瓊がぜんぶ悪い】と、トカゲの尻尾を切って、同家の救済に成功しております。

これも官兵衛との事前打ち合わせがあればできたこと。取り潰しという最悪の事態は、なんとか逃れたのでした。

 

官兵衛、九州で戦う

関ヶ原の戦いで、官兵衛は東軍として九州で戦いました――。

なんて書くとアッサリしているように思われますが、実のところ九州での東軍は少数派。必ずしもイケイケな状況ではありません。

九州や東北では、西軍のほうが有利な状況でした。

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ただし、官兵衛には力強い味方もおりました。

熊本城を建てた名将・加藤清正です。

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官兵衛と激突したのは、大友義統率いる軍勢です。

かつて大友氏は、朝鮮出兵の際に「戦意が低い」として見せしめのように改易されました。

豊臣秀頼は、そんな義統に豊国速水郡を与えます。義統は、念願の豊国入りを目指したいたわけです。

官兵衛は正面からぶつかることはせず、西軍につく不利を説き、説得にあたったものの不発でした。

義統の動きに困ったのが、主君・細川忠興の留守を守っていた家臣・松井康之です。

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康之は杵筑城からの脱出をはかるも、失敗。この康之救出に官兵衛が駆けつけ、義統と激突したのが石垣原合戦です。

官兵衛は義統を生け捕り、家康から賞賛を受けました。

そしてここからが、彼の切り取り本領発揮です。
敗報で逃げる一方の西軍を倒し、領土を得るために戦うわけです。

同様の行動は、伊達政宗や最上義光も取っています。ハイパー切り取りタイムですね。

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これが清正とともに九州を支配してやるぞ、くらいの勢いでして。まさにノリノリ。最終的には薩摩への侵攻も企画していたのですから、どうにも勢いが止まりません。

ここで改めて書いておきますと、フィクションで描かれるように、官兵衛の行動は天下取りのためではなかったということです。

官兵衛は家康の勝利を見越して戦っています。

家康に右手を握られた長政に「そのとき左手は何をしていたのだ」と言った逸話は真実であるとは思えません。

そんなことしても、徳川秀忠やその他の堅強な家臣団、はたまた徳川方の武将が健在である以上まったく意味がありません。西軍を取り込もうと画策しようにも、その瞬間に敵として戦っているわけで。

この辺もフィクションによるメガ盛りの一つでありましょう。

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