黒田官兵衛

黒田官兵衛/wikipediaより引用

黒田家

黒田官兵衛は本当に天下人の器だったか?秀吉の軍師とされる生涯59年まとめ

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悔い無き最期

ともかくも関ヶ原の戦いで、首尾よく東軍は勝利。

東軍の裏切り交渉請負人として、武将として、類いまれな活躍をした黒田父子は、筑前一国52万石という、大大名にのしあがります。

播磨の小さな家の、家臣から52万石へ。天下取りとは言わず、これだけでも十分に戦国サクセスストーリーと言えるでしょう。

慶長9年(1604年)、官兵衛は病に伏せました。

遺言はシンプルです。

葬儀は地味に、国を治め、民を安んじるよう長政に伝えます。

【辞世】おもひおく 言の葉なくて つひにゆく みちはまよわじ なるにまかせて

【意訳】思い残す言葉もなく、ついに最期の時を迎えた。この先道にも迷わない。なるがままに任せよう

人生に後悔を残さない、そんな気持ちが伝わってきます。

そして慶長9年3月20日(1604年4月19日)、死去。

享年59でした。

 

そのままでも有能なのに、話が盛られまくった

黒田官兵衛について言えるのは、とびきり優秀である、ということです。

ざっと人生をたどってきましたが、ともかく優秀以外の言葉が見つかりません。

織田信長のもとで中国地方の工作に没頭し、豊臣秀吉のもとで中国大返しから小田原征伐まで参戦。そして関ヶ原では徳川家康のところへ息子を派遣し、自らは九州を奪い取る――。

天下の趨勢を決める局面で、その都度、勝者に対して絶妙のアシストをしています。

それがゆえに「天下を狙えたのでは?」という思いも湧いてくるのでしょう。

しかし、特筆すべきは、交渉者としての能力です。

毛利との交渉も蜂須賀小六と共に行っており、前述の天下分け目の局面においても、吉川広家を懐柔するほか、九州で多くの城を切り取りました。

主舞台の関ヶ原合戦場では、息子の黒田長政も、東軍への裏切り工作を事前に成功させております。

天下人からの信用を得られるのも納得の働きなのです。

ここで再び気になるのが「軍師」という言葉。

天下人のそばに付き従い、政治的助言や軍指揮の代理を請け負うものだとすれば『官兵衛って、軍師って枠に収まらないな……』と思えてきませんか?

以前からのパブリックイメージが変わらないがゆえに『軍師官兵衛』というタイトルが付けられたりするのは仕方ない一面があると思います。

しかし、その言葉のイメージに近づけた見方をせず、史実に基づいて見ても【一人の武将】として十分すぎるほど魅力的な人物だと思うのです。

ついでに書いておくと、フィクション作品で官兵衛を持ち上げすぎるあまり、黒田長政の評価が相対的に下げられてしまうのも困ったものです。

親子揃っての名将でいいじゃないの。

官兵衛・長政の軌跡を辿れば辿るほど、そんな声を上げたくなります。

文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

 

年表で見る黒田官兵衛

1536年 生前 豊臣秀吉、生誕(1537年説も)
1544年 生前 竹中半兵衛、生誕
1546年 1才 黒田官兵衛、生誕(幼名は万吉)
1560年 15才 桶狭間の戦い
1561年 16才 小寺政職の近習(きんじゅ)となる
1562年 17才 初陣(相手は浦上宗景)
1564年 19才 妹が赤松政秀に殺される
1568年 23才 光と結婚
1568年 23才 長男・黒田長政が生まれる(計2人の子供に恵まれる)
1568年 23才 足利義昭が15代将軍に就任
1569年 24才 山中鹿之介らが尼子再興のため蜂起
1570年 25才 赤松政秀の軍を撃退
1570年 25才 金ヶ崎の退き口→姉川の戦い
1570年 25才 石山本願寺挙兵
1571年 26才 織田信長の延暦寺を焼き討ち
1572年 27才 三方ヶ原の戦いで織田徳川連合軍が武田信玄に惨敗
1573年 28才 武田信玄、死亡
1573年 28才 槇島城の戦いで足利義昭が敗北→毛利輝元の鞆の浦へ
1573年 28才 小谷城の戦い(織田信長が浅井家を滅ぼす)
1574年 29才 信長、長島一向一揆を全滅させる
1575年 30才 長篠の戦い
1575年 30才 長篠の戦いを受け、官兵衛、主君・小寺政職に信長への臣従を進言
1576年 31才 丹波の波多野秀治が信長から離反→明智へ攻めかかる
1576年 31才 安土城の築城開始
1576年 31才 第一次木津川口の戦い(毛利水軍が織田に勝利)
1577年 32才 手取川の戦いで柴田勝家が上杉謙信に惨敗を喫す
1577年 32才 松永久秀、自爆
1577年 32才 羽柴秀吉(豊臣秀吉)が中国攻めを開始
1577年 32才 居城・姫路城本丸を秀吉に提供(自らは二の丸に住む)
1577年 32才 秀吉の上月城攻めに参加
1577年 32才 竹中半兵衛と共に佐用城攻めにも参加
1577年 32才 羽柴秀長が天空の城・竹田城を落とす
1578年 33才 上杉謙信が病没で、上杉家の内紛・御館の乱が勃発する
1578年 33才 別所長治が反旗を翻す(三木合戦へ)
1578年 33才 宇喜多直家&雑賀衆の軍を撃退
1578年 33才 宇喜多直家の調略に成功
1578年 33才 荒木村重が織田信長に謀反
1578年 33才 村重の説得に向かって幽閉される
1579年 34才 安土城の天守が完成
1579年 34才 徳川家康の長男・信康が切腹に追い込まれる(築山殿も死亡)
1579年 34才 竹中半兵衛、死去
1579年 34才 有岡城の土牢に幽閉されていた官兵衛、栗山利安に救出される
1580年 35才 本願寺顕如と織田信長の和睦(という名の織田勝利)
1580年 35才 三木城を陥落させる(三木の干し殺し)
1581年 36才 鳥取城を陥落させる(鳥取の渇え殺し)
1581年 36才 織田信長の京都御馬揃え
1582年 37才 備中高松城を包囲(水攻めを開始)
1582年 37才 本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれる
1582年 37才 中国大返し&山崎の戦いに勝利
1582年 37才 清州会議
1582年 37才 徳川家が甲斐信濃の覇を巡り北条・上杉・真田と争う(天正壬午の乱)
1582年 37才 秀吉による信長の葬儀(大徳寺)
1583年 38才 大坂城の縄張り開始
1583年 38才 賤ヶ岳の戦いで秀吉が勝家に勝利
1584年 39才 小牧・長久手の戦い
1584年 39才 沖田畷の戦いで島津が龍造寺に勝利
1585年 40才 紀州の根来衆・雑賀衆征伐
1585年 40才 四国l攻めで長宗我部元親が降伏(土佐一国に)
1585年 40才 秀吉、関白に就任
1585年 40才 石川数正が徳川家を出奔して秀吉の傘下へ
1586年 41才 秀吉、太政大臣に就任
1586年 41才 自身は従五位下・勘解由次官に叙任
1586年 41才 家康、秀吉の妹と結婚
1587年 42才 九州平定
1587年 42才 中津城の築城を開始(12万石を拝領)
1587年 42才 肥後国人一揆
1588年 43才 反乱していた城井鎮房の一族を攻め滅ぼす
1588年 43才 秀吉による刀狩令
1589年 44才 家督を黒田長政に譲る
1590年 45才 小田原征伐で北条氏政・氏直親子を説得
1590年 45才 家康の関東移封
1590年 45才 奥州仕置
1592年 47才 豊臣秀次が関白となる
1592年 47才 文禄の役始まる
1593年 48才 豊臣秀頼が誕生
1595年 50才 秀次事件
1597年 52才 慶長の役始まる
1598年 53才 豊臣秀吉が死亡・黒田官兵衛&長政親子と共に東軍への引き抜き工作
1599年 54才 石田三成襲撃事件
1600年 55才 東北の上杉討伐のため徳川軍が出陣→三成挙兵の報を聞き小山会議へ
1600年 55才 伏見城陥落で鳥居元忠が死亡
1600年 55才 関が原の戦い
1603年 58才 徳川家康が征夷大将軍となる
1604年 59才 黒田官兵衛、京都伏見の藩邸にて死去

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謎多き黒田氏の出自

黒田氏の祖については主に2つの説がございます。

◆佐々木黒田氏説

『黒田家譜』や『寛永諸家系図伝』等によりますと、黒田氏の出身は近江国。

賤ヶ岳山麓にある伊香郡黒田村となります(現在の滋賀県長浜市木之本町黒田)。

近江佐々木源氏の末裔というのが、黒田家の公式見解でして。この佐々木氏というのは宇多源氏の一派である武家の名門で、他には京極氏や六角氏などがおります。

両家ともに近江と深い関わりがあることで知られておりますね。

家紋の黒田藤巴/photo by Mukai Wikipediaより引用

そしてもう一つの説がこちらです。

◆播磨黒田庄出自説

兵庫県西脇市の黒田庄町が出自という説。この説によると、赤松氏の支族ということになります。

赤松氏は、村上源氏を祖とする一族で、こちらは鎌倉末期から播磨に勢力を伸ばしました。

他には別所氏や上月氏などが赤松氏から分かれたとされています。

いずれにせよ「名門の出なんだぞ」という主張が見て取れまですが、近い先祖で有名なのが「目薬売り」という話です。

それが官兵衛の祖父・黒田重隆(しげたか・ドラマでは竜雷太さん)でした。

 

蓄財に長けた祖父 主君の信任篤い父

まず官兵衛誕生のちょっと前。

祖父の黒田重隆について触れておきますと、重隆は姫路で牢人生活を送りました。

経済的には困窮しておりまして、夢のお告げに従って目薬を販売したところ、これが飛ぶように売れて財を成した――という筋書がございます。

正直、この手の話は後世盛られた可能性が否定できません。

ただ、重隆に経済的センスがあり、蓄財をしたというのはおそらく間違いないのでしょう。

重隆の子であり、官兵衛の父である黒田職隆は心優しく、貧しい人を助けていたと伝わります。その性格がどこまで真実であるかはさておき、主君である小寺氏の信任を得ていたことは確かです。

職隆は主君の小寺氏から信用を得て、小寺姓の名乗りも許され、小寺則職(のりもと)から「職」の一文字を与えられました。

祖父→父と優秀な人物から官兵衛のような俊才が輩出された――そう考えてよさそうです。

【参考文献】
渡邊大門『黒田官兵衛 作られた軍師像』(→amazon
安藤英男『黒田官兵衛のすべて』(→amazon
『国史大辞典』

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