前田利長

前田利長/wikipediaより引用

前田家

前田利長の生涯|信長に気に入られ家康に疑われた利家の嫡男 関ヶ原では?

2025/01/11

永禄5年(1562年)1月12日は、前田利長が誕生した日です。

あの前田利家の嫡男であり、母は大河ドラマでもお馴染みの「まつ」こと芳春院。

二人から生まれた利長は、百万石として知られる加賀藩としては初代藩主になります。

実際に百万石を超え、最大で119万石まで発展させたのも、実はこの前田利長であり、父・利家が当主の時代は一族合わせて76.5万石でした(当代記)。

ここまで大きな藩祖にしては、知名度や若い頃の経歴が不明な気がしますが、それは父の武名があまりに輝いていたからかもしれません。

前田利長(利家の長男)/wikipediaより引用

本稿では、前田利長の生涯を振り返ってみましょう。

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前田家の混乱期に生まれた前田利長

前田利長が生まれた永禄5年(1562年)と言えば、前田家も織田家もまだまだ黎明期。

あの【桶狭間の戦い】が永禄3年(1560年)ですから、利家が「特別に苦労を強いられていた時期」でもあります。

というのも利家は永禄2年(1559年)、信長お気に入りの茶坊主を斬り殺してしまい、織田家への出入り禁止を喰らっていたのです。

前田利家/wikipediaより引用

笄事件(こうがいじけん)と呼ばれ、織田家へ戻るのを許されたのは、その約2年後の永禄4年(1561年)。

【森辺の戦い】で、足立六兵衛(首取り足立)という敵の猛将を討ち取ってからのことですから、利長が生まれたのは織田家に復帰後間もない頃のことですね。

◆利家が織田家を追放される(永禄2年)

◆桶狭間の戦いで利家も勝手に参戦して頑張るがまだ許されない(永禄3年)

◆森辺の戦いで復帰を許される(永禄4年)

◆長男の前田利長が生まれる(永禄5年)

信長が家督を継ぎ本能寺で斃れるまで、織田家はずっと激動でしたが、それでもこの時期の前田利家は特にキツかった頃でしょう。

そんなときに長男が生まれたのですから、利家にとっては非常に励みになったと思われます。

 


信長の四女・永姫を嫁に

右も左も、いつになっても敵だらけ。

そんな織田家にとって、大事な家臣に次代を担う男児が生まれたことは非常に喜ばしいことでした。

その証拠に前田利長は、幼いうちから信長に仕え、19歳で信長の四女・永姫(玉泉院)を正室にもらっています。

織田信長/wikipediaより引用

信長が自分の娘を与えるということは「お前には期待してるから、よく励めよ」というサイン。

利長は晴れがましく、また気の引き締まるような気持ちになったことでしょう。

たとえ、当時永姫がたった7歳だったとしても……と、これは別に信長がテキトーに選んだわけではなく、永姫より年上の女児たちがすでに全員お嫁に行ってしまっていたからです。

信長の長女・徳姫は松平信康(徳川家康の長男)へ。

次女の冬姫は蒲生氏郷へ。

三女の藤姫(秀子)は筒井定次(筒井順慶の養子)へ。

いずれも織田家と結びつきの強い一族に送られていますので、それだけ前田家も重要視されていたことがご理解できるでしょう。

しかし、婚儀の翌年、突如、不幸に見舞われます。

当の信長が【本能寺の変】で討死してしまうのでした。

 

本能寺後は父と共に勝家→秀吉へ

近江で本能寺の一報を聞いた前田利長は、直ちに永姫を前田家の領地へ逃しています。

しかし利長がその後どうしていたのかが不明。

信長の次男・織田信雄に合流したとも、蒲生賢秀(氏郷のトーチャン)と一緒に蒲生家の本拠・日野城にいたともされています。

普通こういうときって、奥さんの動向がわからなくなるものですけどね。不思議なこともあるもんです。

その後は父と共に柴田勝家につき、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)と敵対することになります。

猛将として知られた柴田勝家/Wikipediaより引用

ご存知【賤ヶ岳の戦い】ですね。

近江の琵琶湖沿いの賎ヶ岳で勝家と秀吉の両軍が長くにらみ合い、佐久間盛政の突撃で一気に戦況が変わったこの一戦。

戦局が決まる!

そんな重要場面で前田利家と前田利長は戦線を離脱し、勝敗の行方は一気に秀吉勝利へ流れました。

なぜ前田家は現場を離れたのか?

今なお真相は闇の中ですが、柴田軍にとっては裏切りで、秀吉にとっては朗報でしかなく、結果、前田家はこの一戦を経て豊臣家の揺るぎない重鎮へと取り上げられていきます。

父の利家に続いて利長もまた、豊臣政権下において【九州征伐】や【小田原征伐】で戦功を挙げていきました。

その甲斐あってか、26歳のときには豊臣姓を許されるほどです。

順調すぎる出世を経て父も豊臣五大老の一人に数えられ、後に利長自身も後釜に据えられますが、それだけに秀吉と利家の死後における立場は非常に難しいものとなりました。

他でもありません。徳川家康の台頭です。

 

家康暗殺計画と加賀征伐

前田利家が亡くなったとき豊臣秀頼は7歳。

ということは、三年経てば10歳、数え年なら12歳になります。

まだまだ幼いとはいえ、秀頼が名実ともに豊臣家を担っていける年齢ですね。

父の豊臣秀頼/wikipediaより引用

五大老の一つである前田利長がここでシッカリと秀頼を補佐すれば、どうなるか?

そのことを誰よりも懸念し、そして対処法を考えたのが家康でしょう。

慶長4年(1599年)8月、利長は父の死から半年後、金沢へ帰ってしまうのでした。

帰国の理由は「鷹狩り」とか、あるいは家康から「少し休んで地元の政治を進めなよ」と言われたとか、そんな伝承があります。

いずれにせよ、それが前田家にとっては運命の分かれ道となりました。

この帰国をキッカケに、利長による「家康暗殺計画」が表面化。

前田家と徳川家の関係が悪化してしまい、一説には【加賀征伐(前田家の討伐)】が実行されそうになったとも。

出典元が後世の史料のため「仮に家康を暗殺する計画があったとしても利長が関係した事実はない」として、加賀征伐そのものを否定する研究者もおりますが、兎にも角にも利長は、家康によって政権の中心から排除されるような形になってしまいます。

このころ別の五大老・宇喜多秀家も、同じく家康にやりこめられていたのですね。

宇喜多秀家/wikipediaより引用

 


母の芳春院(まつ)が人質になる

秀吉亡き豊臣政権において、着実に周囲を固めていく徳川家康。

その家康との関係を悪化してしまった(あるいはそう追い込まれた)前田利長。

利長としては徳川との関係修復を願いつつ、単に弱気なばかりではなく、万が一合戦になったときも考えて動いていたようです。

と、そこで機転を利かせたのが、利家の死後、仏門に入っていたまつ(芳春院)です。

彼女は自ら「私が江戸へ行けば、家康は前田家を潰すことはできないでしょう」と、人質になることを申し出ました。

 

人質というのは、相手が手を出してきたときのために生かしておくもの。この場合だと前田家のほうから家康にケンカを売らない限り、まつの身に何か起こることはありえません。

年老いた母を差し出すことを、利長は最初ためらいましたが、熟考の末、他に方法がないことを悟り、まつを江戸へ送ります。

……なんて手短にまとめると、ストーリーとしては非常に面白いものですが、実際は前田家と徳川家で事前に入念な交渉があったと考えるほうが自然なようです。

というのも、母を人質として送る代わりに、前田利長は妻の永姫(玉泉院)や実弟・前田利政を国許へ戻らせることに成功しているのですね。

加えて、異母弟で養子にしていた前田利常と珠姫(家康の孫で秀忠の娘)を結婚させることにも繋がりました。

人質を出した上に縁戚になったからには、前田家も徳川家も互いに手荒なことはできません。

それと引き換えに、力関係の上で前田家は、徳川家の傘下に入ったも同然になりました。

ちなみに、まつは慶長19年(1614年)まで江戸での生活が続いています。

 

関ヶ原では東軍か西軍か

関ヶ原の戦い本戦に関しては、前田利長の意図はハッキリしていません。

出陣はしているのですが「丹羽長重を討とうとした」のか、「西軍本隊に対処するためだった」のか、その真意を測りかねるとも言われたりします。

しかし、実際は東軍であったのでしょう。

理由は2つあります。

1つ目は、会津若松の【上杉征伐】です。

石田三成の挙兵を促すことになった徳川軍主体の東北遠征として知られますが、このとき利長は日本海側を進み、米沢経由で会津へ攻め込む算段があったとされます。

当初から東軍サイドでなければそうはならなかったでしょう。

そして2つ目。

上杉征伐の後に三成が挙兵したとき、利長は家康に上方へ来るよう上京を要請しているのです。

石田三成/wikipediaより引用

その際、三成から前田家に対しては、当然「西軍への参戦」を求める書状が届きますが、ここで利長が明確な返答をしなかったことから「関ヶ原での立場がわかりにくい」と指摘されます。

しかし、実際には家康方となって行動しているのが、後の進路からもわかります。

関ヶ原の戦場には出向いていないものの、上方へ向かう途中の慶長5年(1600年)8月に西軍・山口宗永の籠もる大聖寺城を攻略。

さらには同年8月、【浅井畷の戦い】で西軍だった丹羽長重と戦っています。

関ヶ原の本戦には間に合わなくても、戦功は十分に挙げていたのですね。

 


妹・豪姫の夫である秀家を助け

ただし、全く問題がなかったワケではありません。

人質から取り戻したばかりの弟・前田利政が、途中から参戦を拒否したのです。

明確な理由は不明で、利政の妻が三成の人質になっていたからとか、大聖寺城での戦いで疲弊したからとか、複数の要因が挙げられます。

どんな理由にしても、その行動が許されることはなく、利政は改易に処されてしまいました。

ただし前田家としては、不幸中の幸いだったかもしれません。

利政の領地・能登一国は、そのまま前田利長に加増され、前田家は百万石を上回る大大名へと発展していくのです。

ぜんぶ父ちゃん(前田利家)のお陰やんけ――。

なんて指摘されるかもしれませんが、権謀術数うごめく中で、76.5万石だった利家時代から119万石まで発展させたのは相当なことでしょう。

関ヶ原に敗北し、徳川の追手から逃れていた宇喜多秀家(妻が妹の豪姫)の逃亡を手助けしていた可能性も指摘されています。

結局、秀家は捕らえられて八丈島に送られますが、それ以降も前田家が物品の援助をしていたことはよく知られた話ですね。

実は秀家が亡くなった後も続き、少なくとも1868年までに76回の援助記録があるほどです。

変わったところでは、徳川秀忠の乳兄弟をブッコロしてトンズラしていた本多政重(本多正信の次男)を召し抱えたりもしました。

本多政重/wikipediaより引用

政重はその後、一度前田家を離れて上杉家に奉仕するのですが、その後、利長が隠居してからまた加賀に戻っています。

そして利長の弟・前田利常をよく支えました。

ちなみに、政重が戻ってくるときに間に入ったのが藤堂高虎です。

ここまで来ると利長の話からかなり離れてしまいますが、大藩前田家の礎を作った人物だけに、相応の政治外交力も備えていたということでしょう。

亡くなったのは大坂夏の陣があった慶長19年(1614年)。

享年53のことでした。

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【参考】
大西泰正『前田利家・利長 (中世から近世へ)』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
前田利長/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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