松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)

松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)/wikipediaより引用

三好家

松永久秀の生涯|三好や信長の下で出世を果たした智将は梟雄にあらず

2024/10/09

大河ドラマ『麒麟がくる』で、吉田鋼太郎さんの演じた松永久秀が、戦国ファンのみならずお茶の間でも話題になりました。

梟雄イメージじゃない!

それどころか非常に思慮深くて外交力、政治力も有している。

そして織田信長とぶつかった後の死に様が圧巻だった――。

信長と久秀、二人の関係性は非常に複雑かつ印象的ですから『麒麟がくる』でも大きな見どころでした。

史実における松永久秀の実像も、最近の研究で変わりつつあります。

気品。

知性。

そしてワイルドさ。

歴史の歯車が一つ変わっていればイケメン智将で描かれてもおかしくなかったのではないか? と、そう思わされるのです。

2020年3月に市立しろあと歴史館(高槻市)が発表した松永久秀の肖像画/wikipediaより引用

本稿では、天正5年(1577年)10月10日に亡くなった、松永弾正久秀の生涯を史実ベースで振り返ってみます。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

松永弾正久秀? ああ、ギリワン・ボンバーマンね

松永久秀――。

戦国ファンならば、その名を聞いただけでニッコリしてしまう、愛されキャラであります。

と言っても織田信長や真田幸村などのヒーロータイプとはまるで違う。

凶器攻撃と火を噴くパフォーマンスを駆使しそうな戦国随一のヒール枠。

『信長の野望』シリーズのステータスでは、義理が最低の「1」であります。

端的に言えば「裏切る人」であり、史実では、信長に二度従い、二度反旗を挙げたことで有名ですね。

かつて義理「2」としてヒール役を背負わされていた最上義光も、今ではすっかり評価が見直されていて、だからこそ久秀には頑張ってもらいたい――。

そんな風に思わせる最も象徴的なエピソードが、松永久秀の死に様でしょう。

【平蜘蛛の茶釜を抱えて爆死する!】

まるでマンガのような伝説で、今なお戦国ファンには「ボンバーマン」として人気を博しております。

しかし……。

松永久秀が平蜘蛛を割る場面(月岡芳年:1883年)/wikipediaより引用

近年の研究で、松永久秀はそこまで悪くなかったのではないか?とされ始めたのです。

ヒールな彼が大好きであった私も、これには驚いております。

では進んだ研究とは一体どんな内容なのか?

 


江戸時代と戦国時代の価値観は正反対

これは日本に限ったことではありませんが、乱世と太平の世で価値観が逆転することはままあります。

戦国時代には褒められた「戦場で敵を欺く」機転も、江戸時代に真似られたら大変。

そこで用いられたのが儒教道徳でした。

武士階級だけでなく庶民まできっちりと統制する必要があり、例えばこんな場面が考えられます。

【殺し / 仇討ち】

・「主人殺し」のような、目上の立場を傷つけた場合は武士以外でも死罪となる

・「仇討ち」は、基本的に目上の親族のみにできる

→子が親の仇討ちをする、弟が兄の仇討ちをする等

【切腹】

・戦国時代は、主君が臣下を守るための切腹があった

→例:清水宗治

・江戸期以降は、主君の切腹という最悪の不名誉を避けるため、家臣が戦い抜く

→例:会津戦争(西軍の求めた条件が松平容保の首級だったから)

こうした価値観の変遷が起き、戦国武将の評価についても、現在と江戸時代ではかなり異なっておりました。

【江戸時代で不人気枠の武将たち】

・織田信長

→残虐とされた行為が注目されたせいか、意外と評価が低い

・直江兼続

→「大御所様(徳川家康)に喧嘩を売って主家(上杉家)を滅ぼしかけた」という奸臣評価も

・松永久秀

・斎藤道三

・伊勢宗瑞(北条早雲)

→正体不明なのにのし上がってきた、つまりは目上に背いた、そんな枠はともかく嫌われる

【例外】

・真田昌幸

→大名家の祖先であるため庇われる

→真田幸村ともども社会のガス抜き(反徳川アイコン)として高評価

・最上義光

→昭和期から評価が下落し逆転した、極めて稀有な例

現在は、織田信長も直江兼続も大人気の武将ですよね。

つまりは明治時代以降に再評価が進んだわけですが、そんな中で松永久秀は最後まで取り残された枠と言えましょう。

彼のぶっ飛んだヒールっぷりやエピソードが強烈かつ面白いがために、そのままにされていたのかもしれません。

では、実際のところはどうだったのか?

 

どこから来たのか? 松永久秀

実は松永久秀は、生年すらハッキリとはしていません。

大名家の男子ならば、祈祷、瑞祥、祝福と共に誕生が記録されます。

それがない場合には、没年から逆算するしかありません。

久秀の誕生年とされる永正5年(1508年)は、まさしくこの逆算によるものです。

生年が不明ですから、誰の子であるかもわかりません。

出生地すら、三説が混在しております。

【松永久秀の出生地三説】

・山城国(京都)西岡の商人説

→斎藤道三の商人設定を流用したように思える

・阿波国説

→傍証が不足している

・摂津五百住(いおずみ)の百姓説

→江戸時代初期に同地出身「松永」姓の人物が、久秀との血縁関係を認識していた記録が残されている。悪名をふまえると、わざわざ無関係な人物が名乗るとも考えにくい

傍証の数を考えますと、出身は摂津五百住(いおずみ)なのでしょう。

百姓のやや上程度の身分であり、土豪の類ではないかと思われます。

それではちょっとつまらないと考え、後世の人々が話を盛りたくなる気持ちもわからなくはありません。

そんな願望が、彼の伝説にはつきまとっています。

 

三好長慶、世に出る

松永久秀は、ヒールとしての輝きゆえに色々と誤解が多いと指摘してきました。

それは主君だった三好長慶についてもそういえます。

三好長慶/wikipediaより引用

三好長慶は、久秀よりも一回りほど遅れた、大永2年(1522年)に誕生。

幼名・千熊丸というこの少年は、苦難の少年時代を送りました。

天文元年(1532年)、11歳の時、父・三好元長が本願寺の一向一揆勢により、堺で自害してしまったのです。

そこにはややこしい構造がありました。

三好元長
vs
細川晴元
vs
本願寺証如

弱体化した足利将軍家に代わって勃興した三つ巴。

まだ幼い長慶は、パワーバランスの中でなんとか助命され、その後、元服までたどり着いたものの、じっと息を潜めているしかありません。

天文8年(1539年)18歳で手勢を率いて上洛を果たし、やっと一勢力として認められます。

長慶は、何かあれば阿波国に逃げることはせず、近畿で勢力を築き上げようと決意。

周囲の大名を警戒し、外交を行い、内政や軍事の充実をはかりつつ、飛躍のときを待つのでした。

こうした最中の天文10年(1541年)、久秀は仕え始めたとされています。

君臣一体となって、三好家の勢力は伸びていきました。

反比例するかのように、細川氏の力は低下。

ここで、我々後世の人間に、こんな考えが浮上してきます。

あのお坊っちゃま(そうかな?)の三好長慶が伸びていく。

その背後には、謀将・松永久秀がいたはずだ!(そういうものかな?)

三好長慶が伸びたのも松永久秀のお陰という考え方――そんな後世のバイアスは、取り除いて考えてみましょう。

実は、久秀の動きはそこまで特定できるものでもありません。

はじめは右筆、そのあと訴訟取次の奏者。

軍事活動が目立ち、一国一城の主にまでのぼりつめたのは、むしろ弟・松永長頼でした。

松永久秀がそんな秘書的裏方だったなんて嫌だ、遣り手の強引営業マンであって欲しい……そんな願望は横に置いときましょう。

私個人としましては、久秀の教養と態度に感銘を受けました。

出自を考えますと、それまで相当な努力を重ねて教養や芸術センスを身につけたと思えるのです。

教養の欠如は、この時代となるともう話にならない。

意識的に身につけようと動き、努力せねば、ここまで洗練されるものではありません。

松永久秀・悪人説の一要因として『性技テキスト』の執筆があげられます。

これも、あくどいナンパマニュアルだと解釈すればそうなるかもしれません。

しかし、東洋医学の知識も含まれており、寝室でのマナー破りをしないためのマニュアルならば、むしろ紳士的ではありませんか。

久秀の妻の数は、少なくとも二人が確認されてはいます。

側室もいたようですが、さほど多いとも思えません。

正室:松永女房(久通の母)

継室:広橋保子

久秀による、広橋保子の追悼は、きめ細やかなものでした。

そこからは、深い愛を感じさせるほどで、洗練された紳士のような実像が浮かび上がってくるのです。

 


足利義輝との対立

三好長慶のもとで踏ん張っていた松永久秀。

細川晴元と戦っていたところ、ある勢力が敵陣に加わりました。

将軍・足利義輝です。

剣豪将軍と呼ばれた足利義輝/wikipediaより引用

剣豪将軍とも称される足利義輝の死については、陰湿な松永久秀のせいで非業の最期を遂げる印象があります。

しかし、三好家から見れば、義輝の動向の方がおかしく映る。

「細川との喧嘩に今さら将軍がのこのこ来られても、わけがわかりません!」というものでした。

かように混沌とする都周辺で、沸騰する諸勢力をにらみながら、文化活動も欠かさない。

そんな主君に尽くす久秀。

天文22年(1553年)ともなりますと【義輝が長慶を殺す】という噂すら流れ出すほどでした。

細かく言うと、挨拶に出向いたところで暗殺する――そんな風に囁かれたのですから、長慶からすれば腹が立つ話でしょう。

長慶は義輝を殺す気だったか?

いや、そうではありません。細川支援から手を引けば、それまでのことではあります。そこにはすれ違いがあったのでしょう。

将軍からすれば、権威を取り戻したい。

一方で他の勢力からすれば、鬱陶しい属性付きの支援者でしかない。

京都の人々にとっては、三好こそが支配者となりつつあった。

長慶にしても、幾度となく繰り返される和睦破りを我慢しながら、義輝には精一杯の譲歩をしていたのです。

しかしついに限界に達し、長慶は天文23年(1554年)、足利義輝を近江朽木に追放。

この一件に対する久秀本人の見解は、天文24年(1555年)、六角氏家臣・永原重興宛ての書状から伺えます。

「義輝側が、三好に対する約束破りをさんざんしてきて、細川支援をやめないわけです。

もう限界です。そのうち天罰が降るんじゃないですかね。

京都の平和が第一ですから、是非とも六角氏にはこちらについていただきたく願う次第です」

久秀は苦労を重ねつつ、そうした外交交渉を担っていたのです。

教養溢れる趣味もあり、文章も書ける、そんなスマート外交官としての像が見えてきます。

松永久秀には、連歌はじめ、当時必須とされた教養を身につけていたこともわかります。

着目したいのは【三好長慶には義輝を立てる意図がなかった】ということです。

このことが、いかに画期的であったか。

織田信長の足利義昭の態度に通じるものもあります。

信長のそうした態度だけがCOOLで、三好長慶と久秀が悪とされるのであれば、それはなぜか?

やはりそこにはバイアスがあるのでしょう。

織田信長/wikipediaより引用

 

大和侵攻と支配

足利義輝が天文23年(1554年)に京を追放され、弘治という元号がたった四年で終わり、永禄と改元されたその年。

義輝は、断固として改元に従わないどころか、挙兵しました。

しかも、メキメキと力を伸ばす毛利元就も、改元を拒否。

京都の秩序に大名が従う――そんな時代はほとんど崩れつつありました。

・斎藤道三

・斎藤義龍

・長尾景虎(上杉謙信)

・武田晴信(武田信玄)

・織田信長

各地で大名が力を伸ばし、時代は変わりつつあります。

こうなると、将軍の意味合いも変化します。

握ればキングメーカーとしての価値も生まれる。長慶も妥協を探る必要性が生じます。

長慶を利用して、幕府秩序の復活を狙う義輝。

義輝を利用して、諸大名にリードしたい長慶。

そんな同床異夢があるのです。

そうした状況の中の永禄2年(1559年)、松永久秀は大和の支配を任されました。

当時の大和は、多くの土豪が小競り合いを繰り返している状態であり、歴史ファンにとってはお馴染みの一族もうごめいておりました。

一例を挙げますと……。

◆筒井氏:筒井順慶(つついじゅんけい)ら

◆柳生氏:柳生石舟斎、柳生宗矩、柳生十兵衛ら

割と知名度のある武将たちですが、彼らのルーツについては不明な点も多いものです。

筒井順慶については、どうしても「洞ケ峠(ほらがとうげ)を決め込む」優柔不断なイメージがあり、柳生は剣豪としての存在感が強い。

いずれもフィクションの影響を強く受けた存在です。

個人的な話となりますが、長年不思議に思うことはありました。

ストイックで剣聖のイメージが強い、あの柳生石舟斎。

そんな彼と、ムンムンとした悪党である松永久秀。

なぜ両者に繋がりがあるのか?

時代ものフィクションを読むたびに、接点が土地柄しかなく、人間性が真逆だった二人の関係に混乱していたのです。

その答えがようやくわかった気がします。

三好一族の総力を挙げ、平和の兆しすら見えない当時の大和へ、久秀らが安定をもたらすために攻め込んだ。

それが永禄年間の大和でした。

当時、現地で権勢を誇っていた安見宗房(やすみむねふさ)や、その右腕たる筒井順慶。

こうした諸勢力を、大和の国人に支援を得て討ち取り、安定的な支配を狙ったのです。

筒井順慶/wikipediaより引用

この大和侵攻にしたって、久秀は「支配の挙句、酒池肉林を楽しんだ」というどうしようもない印象があります。

実際は、そうではありません。

筒井氏が圧迫していた春日社を復興し、国人たちが参拝を遂げているのです。松永久秀は梟雄どころか、大和の救世主でした。

そんな中に柳生宗厳、後の柳生石舟斎がおります。

彼は戦乱に荒れ果てた大和を救う久秀に仕え、信頼を得ていったのです。大和の土豪で終わらぬために、久秀に期待と身を寄せたのでした。

戦乱の最中、久秀は倒れ、天下は荒れていきます。

石舟斎の子・柳生宗矩にとっての徳川家康は、父にとっての久秀でした。

大和の柳生庄に住んでいた一族が、天下人に剣術を指南するまでに上り詰める。その軌道の背後には、そうした眼力と信念がありました。

主君としてみても、松永久秀は悪人ではありません。

これまた個人的な話で恐縮ですが、以前、旅行で大和を訪れました。

寺社破壊の跡は見つからず、古代の息吹すら残る、神秘的な景色が印象的でした。

松永久秀は、それを破壊するどころか、むしろそれを守った一人だったのか? と思うと、感慨深いものがあるのです。

 


下剋上の先駆者

当時の大和の勢力は、まるでスズメバチの巣のよう――。

そんなエリアを支配するのは途轍もない困難を伴います。戦国時代ですから、全国的に戦乱の傾向があったとはいえ、やはり大和は難儀な土地でした。

それでも三好長慶が踏ん張れたのは天下のためでした。

では、いったい「天下」とは何か?

『信長の野望』ならば、全国マップを塗りつぶすこと。

そのイメージが、どうにもしみついてしまっているのかもしれません。

永禄4年(1561年)であれば、畿内を支配する者に天下人の資格があったと言えます。

勢力を伸ばした三好長慶とその君臣には、異例の待遇が授与されました。

◆三好義興(長慶の嫡男)と松永久秀、従四位下に叙せられる

→これより前、天文22年(1553年)に長慶、永禄三年(1560年)に三好長逸が従四位下

→同時に久秀は「源氏」姓の源久秀となる

◆御紋(桐紋)授与

◆義興に対する浅葱色の「御肩衣・御袴」着用許可

三好長慶一人の恩典であれば、そこまで重要でもないかもしれない。

しかし、後継者たる義興、そしてその義興を支える久秀までも含まれるとなれば、そこには血縁による継承が見えてきます。

義輝からすれば、王手をかけられたようなものと言えます。

傀儡となりつつあった。

ただ、同時に不安定要素もあるのでした。

そのひとつが、長慶の弟・十河一存(そごう かずまさ)の死です。

これも従来は、久秀が馬を用いて暗殺した逸話があったものですが、フィクションといえます。

動機も弱い。長慶の信頼を得ているからには、それを台無しにするような策を用いる必要性も感じません。

松永久秀は裏切りどころか、三好長慶・三好義興に対して一貫して忠義を示しています。

このころ久秀の役割は、秘書的なものではなく、武将としても発揮されておりました。

畠山氏に勝利し武名を挙げた1562年【教興寺の戦い】も、その一例でしょう。

とはいえ、才ある武将として評価されるには、それだけではもの足りないのが乱世のならわし。

求められる能力は他にまだありました。

「築城」です。

石垣をどう積むか?

鉄砲伝来にどう対応するか?

そうしたスキルがなければ、笑い者になりかねない。

この点から見ても、松永久秀は抜群のセンスがありました。それが発揮されたのが……。

 

多聞城は全く新しい夢の城

久秀の築城センスが発揮された城――それが永禄5年(1562年)棟上の多聞山城でした。

多聞とは毘沙門天のことであり、信仰心のあらわれとされています。

毘沙門天信仰と言えば、上杉謙信ですよね。

そんな軍神と、あの久秀が同じだなんて嫌だな……そんなイメージもあるかもしれませんが、久秀の信仰心を疑うのはやめておきましょう。

この城は、奈良の北にあります。毘沙門天とは北の守護神でもある。

奈良の北を守る毘沙門天に自らを重ねたい、そんな真剣な思いすら感じさせるのです。

こうして見ていると、松永久秀に対して、いろいろと本当に申し訳ない気持ちになってきました。

だってさ。彼は責任感が人一倍強いではありませんか。

松永久秀が手塩にかけ完成した多聞城は、大和の人々のみならず、宣教師も驚いたと言います。

・ヨーロッパの城のような高層構造

・白壁に黒い瓦という、モノクロームの洗練されたデザイン

・杉を豊富に使い、その香りでも訪問者を喜ばせる

・庭園と樹木も美しく整えられ、見ているだけで目の保養

内装の彫刻、絵画……何もかもが美しく、軍事面での備えもバッチリ。

同時代の人々にこう評されています。

◆フロイス『日本史』

「日本で最も素晴らしく、美しい城!」

◆吉田兼右『兼右卿記』

「あまりの華麗さに、来訪者が皆ビックリ!」

夢のような城ではありませんか。

この多聞城は、後に織田信長がそのセンスに嫉妬……というと語弊がありますが、ともかくインスピレーションを受けた建築であることは確かなのです。

あまりに華麗な城は、華麗な才能あってのもの。久秀は当時随一のセンスの持ち主でした。カッコいい……。

建築だけではありません。

松永久秀は、文化芸術でも天下掌握をめざしていたような、洗練されたふるまいが見て取れます。

その一例が茶会でした――。

棟上げの翌年、永禄6年(1563年)に松永久秀は茶会を開催しました。

参加者は、もちろん当時の有力者たち。

そこには見る者の耳目を集める芸術品、美術品を並べておりました。

当時、中国・明朝では、こんなことが言われておりました。

「現地ではどうでもいいようなものでも、日本に持っていけば高値がつくからチョロいよね!」

しかし久秀のようにセンスある人物となれば、明から来た文物の中から、これぞというものをチョイスできたのです。

【明】という看板だけでもプレミアがつくのに、その最高級品を惜しみなく並べている。

これだけで、来場者の気持ちがたかぶるだけではなく、冷や汗もにじむようなことなのです。

一例として、牧谿(もっけい)作「煙寺晩鐘図(えんじばんしょうず)」(国宝・畠山記念館蔵)は、松永久秀が所有していたことがあります。

牧谿作の国宝「煙寺晩鐘図」(畠山記念館蔵)/wikipediaより引用

国宝級の美術品が集まる、日本一華麗な建造物での茶会――。

権力者とは、政治軍事だけでなく、文化芸術での支配をも同時に行います。

エリザベス1世は、シェイクスピアを援助し、その演劇鑑賞を好みました。ルイ14世は、バレエを踊ることでその華麗さを見せつけました。

日本では、茶会や能楽が、将軍や武将に愛されたものです。

久秀には、紛れもなくこうしたセンス、それも一流のものがありました。

 


久秀と宗教

織田信長と松永久秀――。

両者を並べて『ここまで重なるのか……』と感嘆してしまうのが、キリシタンへの待遇です。

永禄2年(1559年)、イエズス会所属の宣教師カスパル・ヴィレラ(ポルトガル人)が上洛。足利義輝と三好長慶から布教の許可を得ました。

外国人の動きというものは、どこに権力があるか見通す上でも重要です。

そして外国人が選んだ権力者は、天皇ではなく将軍でした。

しかも、将軍だけではなく長慶にも布教許可を求めておりました。つまり長慶も最高権力者の一人として認識されていたということです。

当時の宣教師は、プロテスタントの台頭に警戒を強め、明国を狙っていました。

しかしその反発を受けて、東の日本に狙いを定めたのです。

絵・小久ヒロ

久秀のキリスト教への対応は、現代人の視点から見ても面白いものがあります。

彼は大和支配でも顕著にその傾向が見られますが、日本古来の宗教を尊重し、保護しています。

熱心な法華宗信者でもあり、寺社仏閣の保護には極めて熱心に取り組んでおりました。当時の法華宗徒にとっては、信仰の保護者のような存在です。

この法華宗信仰は、母譲りでもありました。

久秀は大変な親孝行かつ家族愛の強い人物で、母の宗教を大切にし、病気平癒のために祈願をしています。

そんな久秀に、僧侶たちはキリシタンへの対応を懇願します。要は排除してくれ、というもの。

では後の豊臣秀吉や徳川幕府のような弾圧を行なったか? というと、久秀はそうではありません。

永禄6年(1563年)、結城忠正を経由して比叡山の訴えを受け入れた久秀は妥協案を出しました。

「宗論」です。

今でいうところのディベートですね。キリシタンを追放するための前段階として、そのワンステップを入れているのです。

後世の踏み絵による追放とは違う洗練性がありました。

この宗論はキリスト教代表者としてヴィレラが選ばれましたが、彼は殺害を警戒し、山口の受洗済琵琶法師・ロレンソ了斎が選ばれます。

そして行われた宗論で、審査に臨んだ結城忠正と清原枝賢はキリスト教に感服。

ヴィレラを奈良まで呼び寄せました。

忠正はアンリケ、高山飛騨守友照はダリオとして、キリシタンとなったのです。

高山友照とは、あの高山右近重友、洗礼名ジュストの父にあたります。

高山父子はその生涯をキリシタン信仰に捧げた人物です。

こうした人物を見て、久秀はどう思ったか?

宗教の自由を受け入れ、彼らの持つ知識を受け入れたのです。

もしも久秀が狭量であれば、高山右近も弾圧死していたかもしれない――そう思うと、感動すら覚えませんか。

戦国屈指の高潔な人物という印象すらあり、フィクションでもそのように描かれる高山右近。

それが、あの久秀の寛大さゆえに宗教に目覚めたというのは、目がさめるような思いです。

なお、内藤如安は、久秀の甥にあたります。

ジョアン内藤こと内藤如安を偲ぶ石碑(京都府南丹市)/photo by ブレイズマン wikipediaより引用

キリシタンと久秀。

両者をどう結びつけるべきか。

「クリスマスに休戦した」というエピソードぐらいの知識はあっても、困惑させられる要素ではありました。

その困惑も終わりにしましょう。

プロテスタント勢力の日本到達、カトリック側の奴隷売買といったどす黒い状況以前とはいえ、久秀は信仰の自由すら受け入れた、画期的な人物であったのです。

 

痛恨、三好義興の死

軍事、内政、築城、文化、後継者確保、家臣団形成――。

三好長慶の天下取りが見え始めると、当然ながら足利義輝は不快感を募らせていきました。

永禄6年(1563年)は、激動の年でもあります。

3月に、長慶の宿敵・細川晴元が死去。

このとき引退状態だったとはいえ、ひとつの時代の終わりではあります。

そして6月、今度は三好義興が急死してしまったのです。

三好義興/wikipediaより引用

享年22という若さ。若くして実力者が急死となると、毒殺説があるものです。

その容疑者筆頭が久秀です。

医学が発達していない時代のこと。食中毒やアレルギーといった死因でも、不審死にされてしまいます。

ここではっきりと主張したいのが【久秀は無実である】ということ。

柳生家の記録では、深く悲しむ久秀の様子が残されています。義興の唯一無二の相談役を任されていたのですから、その方が自然ではありませんか。

後継者の選択も、複雑怪奇といえばそうではあります。

三好一族の十河一存(そごうかずまさ)の長男・三好義継とされました。他に三好の血を引く男子がいた状況からすれば、不思議な流れにも思えます。

ただ、これも理由はシンプルなものではないでしょうか。

義継の母が、前関白・九条稙通(くじょうたねみち)の養女であったのです。

日本ではキリスト教圏とは異なり、正室以外が母でも継承権があります。

徳川将軍家の継承を見ても、母の身分については問われてないような気もします。

が、実際のところ、その家に複数の子がいる場合は、母の血が重視されるものです。

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天皇に近い家格をアイデンティティとして、将軍の座すら狙っていた三好家ですから、前関白の血は重要な要素でしょう。

義興の死は、久秀にとってはチャンス到来どころか、大きな失望そのもの。

支える主家の後継者を失ったのです。

しかも、自身は還暦まであと数年の56という年齢でした。

もはやチャンスはない。

久秀は、息子の久通に家督を譲り、人生の黄昏を見つめることになりました。

いやいや、大暴れの本番はここからでしょ!

期待してますよ、悪事の数々を!

そう後世の人々から期待をされて、彼の魂は何を思うのか……。

 

三好長慶の死 そして「永禄の変」

永禄7年(1564年)、三好家後継者の三好義継が上洛し、その年に長慶が死去しました。享年42。

死の状況は、はっきりとはわかりません。死そのものが秘匿の形跡すら見られます。

これがもしも、太平の世であれば、代替わりのダメージはそこまで大きくはないでしょう。

しかし、下剋上の世とはそうはいきません。

義継はまだ若いのです。

三好義継/wikipediaより引用

久秀も、そのことを痛感していたのか。

朝廷への進物が増えています。権威を背景に、傾きかけた屋台骨を支えたい――そんな思惑があったのでしょうか。

しかし、これをチャンス到来と感じる勢力もおります。

いったい誰か?

長いこと敵対してきた足利義輝です。

重石である三好が軽くなり、途端に義輝の動きが活発化しました。

そして1565年5月18日――。

1万の軍勢を率いて上洛した三好義継たち三好勢が、二条御所を取り囲み、結果として義輝が死亡した【永禄の変】が起きたのです。

犠牲者の中には、義輝の母、弟、側室の父、奉行衆が含まれていました。

刀を手に取り、奮戦する剣豪将軍・義輝の姿も印象的であり、非道な弑殺(主君を殺すこと)とされますが。

果たしてどうなのでしょうか?

ここでは松永久秀の弁護をしたいと思います。

◆久秀は参加しているのか?

→実行犯は家督を譲った息子の松永久通です

◆三好あっての義輝ではないのか?

→将軍位についてから、21年の在位期間のうち6年しか在京していません。それも三好の庇護あってのことでした

◆義輝の態度や朝廷との関係は?

→朝廷との関係も良好とは言えず、改元に背くようなルール違反もしばしば。殺害当初こそ前代未聞のこととされたものの、次第に理解が示されるようにすらなっていた

そして最も注目すべき疑念がこちらです。

「二条御所を取り囲んだのは、はじめから殺害目的だったのか?」

後世の目線から見ると、どうしても義輝とその関係者殺害に注目してしまいます。

ただ、動機がそこなのか。回避できない状況で最悪の事態に陥ったのか。ここに注意が必要です。

他の事例を見てみましょう。

◆中国・荊軻の場合

荊軻による始皇帝暗殺は、匕首を手にして要求を通すものでなかったのか。そんな解釈もできます。

◆日本【禁門の変】の場合

結果的に京都を大炎上させる惨劇となりましたが、最初からそのつもりではありませんでした。

長州藩は、武力を背景に自分たちの要求を通そうとしたことが契機でした。

武力を伴う上洛が成功しているのは、薩摩藩・島津久光です。

こうした事例をふまえますと……。

【三好義継当初の目的は「御所巻」だった】

と考えられるのです。

「御所巻」とは、室町幕府に対し、武力を背景に大名が要求を通すという慣習です。

日本では室町時代独自の恐ろしい蛮行とみなす意見もあるようですが、武力を背景にした要求は、古今東西普遍的にみられる手段ではあります。

治安悪化を伴うことではありますが。

永禄の変は、この「御所巻」が通らなかった結果、暴発して弑逆に至った。それこそが前代未聞であった。そういうことではありませんか。

戦争とは、征服ではなく、政治や外交手段の延長ともみなせます。クラウゼヴィッツが『戦争論』でそう定義していますね。

ただ、それにはリスクを伴う。

『老師』には、
【兵者不祥器 兵は不祥の器】
とあります。

要求を通すために武力を誇示すれば、こうしたリスクが伴います。手出しをするなという、そんな教えですね。

「永禄の変」とは、まさしくこうした武力行使がもたらした悲劇の一例ではないでしょうか。

足利義輝は命を落とし、松永久秀は名声を決定的に落としてしまうのです。

ただ……本当に偶発的な事故であったとも言い切れない。

ここが難しいところではあるのです。

 

倒幕、易姓革命のたくらみ

疑念は残ります。

義輝は、命にかえてでも三好からの要求を断った。

それは何であったのか?

命をかけてまで守りたいものとは、何であったのか?

それは将軍の地位ではなかったのか?

室町幕府そのものではなかったのか?

義輝弑逆は、望まざる結果であったかもしれませんが、倒幕そのものを目指した形跡はあります。

◆清原枝賢の従軍

軍勢の中には、儒学者・清原枝賢がおりました。

軍事的に使えない文人でも、大いに価値はあります。

理論武装です。

「易姓革命」を表明するため、儒学者の頭脳は必須なのです。

曹操が檄文作家・陳琳を厚遇したように、天下を変えたい者は学者を軍勢に加えるもの。

◆改名

本稿では混乱を避けるため名前を統一していますが、以下の2名は義輝死後に改名されました。

・三好義重→義継

三好義継は、改名しても「義」を入れました。

これはいわば、足利家から「義」の偏諱を踏襲した――将軍家の地位を継いだと表明したことになります。

・松永義久→久通

久秀の息子は、将軍家の偏諱「義」を否定しました。

こうした例は、東北の伊達家でも同様の状況があり、伊達輝宗は我が子に対して将軍の偏諱を用いず、中興の祖と同じ「政宗」と名付けております。

我が子への期待もありますが、輝宗はもはや足利家の権力を頼る時代ではないと感じていたのでしょう。

ただし、我が子・久通の行動に父・久秀が理解を示したか?

というと、そうとは思えません。

久秀は、義昭を殺そうとする久通を止めるばかりか、義昭を保護したのです。

改めて状況を確認しますと……。

◆義輝殺害の実行犯は誰か?

松永久秀は、現場である京都にすら出陣の形跡なく不可能。

松永久通は可能です。

では、彼の背後に父・久秀の意思があったのか。

ここが焦点となりますが、もはや久秀は家督を譲っており、必ずしもそうであるとは考えられません。

この時代、父子の意思が一致しているとは限らない。

それどころか久秀は、久通が殺そうとした義昭を保護しているのです。

 

義昭、そして燃える大仏殿

倒幕の意思があるのなら、将軍家の血を引く義昭は不要。殺害こそが理にかなっている。

久通の行動からはそれが窺えます。

一方、人生経験の長い久秀から見れば、三好義継と久通の行動はあまりにハードランディング。義昭を傀儡として、生かさず殺さず、ソフトランディングにした方が好都合とみなしたのでしょう。

義昭保護を幕府の忠誠心や、人間としての親切心とみなすには、無理はあります。

しかし、これが厄介な事態につながっていくのです。

義輝の死後、三好家と松永家は京都の治安維持、回復にあたります。

義昭というカードを庇護することに、久秀は失敗してしまった。

義昭は、なんと奈良経由で朝倉義景と手を結び、近江・和田城へと出奔してしまったのです。

朝倉義景/wikipediaより引用

切り札となる義昭を、みすみす逃してしまった――そうなるくらいならば、始末しておくべきだったのでは?

そう指摘されても仕方ない、松永久秀の失態とみなされました。

なぜなら義昭というカードを得た大名は、忠臣として、奸臣・三好家を討つ大義名分を得られるのです。

反三好勢力は勢いづきました。

これも全ては松永氏の失態。

三好家の家臣からそんな声があがり、ここに「三好三人衆」が台頭し、こんな構図が出来上がりました。

松永久秀・久通
三好義継
vs
三好三人衆

あろうことか彼らの争いは日本の政治の中心地で行われてしまいます。

結果から言いますと……。

永禄10年(1567年)10月、「東大寺大仏殿」が焼け落ちました。

わざとじゃないのです。

大仏を燃やしたかったわけじゃない。

三好三人衆が大仏殿の側にいて、戦闘の結果、大仏が巻き込まれただけなのです。

市街地戦の結果、焼け野原となってしまった場合、誰の責任であるか問うことは虚しいだけではあります。

前述の通り、久秀は宗教を軽んてはおりません。

以前から手厚く保護しているぐらいで、日本初のクリスマス休戦も、三好三人衆との戦果くすぶる中、久秀が行ったものだったぐらいです。

 

信長がやって来る

三好三人衆を退けた久秀。

しかし、事態は予断を許しません。

永禄11年(1568年)、室町幕府14代目・足利義栄(よしひで)が将軍宣下を受けてしまいます。

足利義栄

足利義栄坐像(阿波公方・民俗資料館蔵)/wikipediaより引用

こうなると、義昭というカードは価値を失いかねません。

そんなとき、尾張の大名・織田信長が義昭を擁立し、上洛してくることになったのです。

久秀にとっては絶好のチャンスでした。三好三人衆は京を離れ、久秀は信長に臣従します。

が、それが失態だと気づいたところで時すでに遅し。

今度はこんな構図が出来上がります。

足利義栄:三好三人衆、筒井順慶、浅井長政、他

vs

足利義昭:松永久秀、織田信長、毛利元就、他

久秀は、我が身可愛さに信長に頭を下げたわけではありません。

結果論から先走らずに考えますと……当時の信長はまだワン・オブ・ゼムであり、所詮は義昭を擁立をする一大名に過ぎません。

信長の力を借り、義栄側の三好三人衆や筒井順慶を排除できればありがたいことではあります。

ただ、久秀にも計算外の要素はあります。

・足利義昭幕府の権威がもはや低下していた

・織田信長が、想像以上に強かった

こればかりは、如何ともしがたいものがあるのでしょう。

 

義昭との決別 混沌の中での屈服

元号が元亀元年(1570年)あたりから、時代は変わっていきます。

久秀は信長と姻戚関係を結びつつ、信貴山城(しぎさんじょう)から近畿に睨みをきかせました。

三好三人衆を牽制しながら、後見として情勢を見守る流れになってゆくのです。

年齢からしても、妥当なところではあります。

ところが、義昭と手切れとなってしまうのです。

元亀2年(1571年)、足利義昭は、摂関家・九条家の娘を養女として、筒井順慶に嫁がせました。

松永の宿敵である筒井と義昭が手を結ぶという構図となったのです。

足利義昭/wikipediaより引用

久秀は、義輝殺害に巻き込まれかけた義昭を救ったという思いがあったことでしょう。

義昭はこのとき、周囲の勢力相手に苦戦しており、劣勢にありました。

「溺れる者は藁をも掴む」という諺のように、与し易い筒井順慶を同盟者として見出したわけです。

そこには、松永と筒井にある因縁への配慮が欠けていたと言えます。

そしてこの動きは、久秀が武田信玄と結んでの反逆とされることもあります(1571年、久秀は信長を裏切って武田と結んだとされます)。

しかし注意すべきは因果関係ではないでしょうか。

松永と足利の力関係は、名目的には将軍が上でも、勢力的にはそうとは言えません。

松永久秀が悪いというよりも、義昭が軽率だった。

そしてこの関係において、信長の意向は確認できません。

あくまで構図はこのようになります。

足利義昭・筒井順慶
vs
松永久秀・松永久通

この構図は、結果的に義昭にとって手痛いものとなりました。

死闘を繰り広げた結果、元亀年間初期の畿内において、筒井以外のほぼ全ての勢力が反義昭についたのです。

そんな流れの中、松永父子が仕える三好義継が、勢力を取り戻し始めました。

そこへ織田信長が参戦。三好三人衆の石成友通は信長に味方します。

正義だの、道徳だの、君臣だの、そういうことではなく、勢力争いです。

さらに、ここで本願寺や武田信玄まで巻き込み、足利義昭が動きます。

関係図としてはこんな感じですね。

三好・松永
vs
織田・畠山
vs
足利・武田

かなり混沌としたした状況です。

信長は、義昭に「十七ケ条の異見書」を送りつけました。

三好・松永の手にかかった義輝の前例をあげています。義輝弑逆は、この時代における脅迫にもなってしまった。そういう行為です。

心の底から信長が、あのことを悪事だと憎んでいたかどうか。

そこは慎重になるべきなのでしょう。

むしろ、インパクトがある前例として意識していても、それはありえることでしょう。

義昭は、信長も久秀も敵に回す、あまりにハードな状況へと追い込まれていったのです。信長が先頭に立って義昭を追い詰めたように思えてしまいますが、むしろ周囲が義昭を殴りに行くような状況でした。

そんな義昭が頼るのが、朝倉義景であり浅井長政となります。

浅井長政/wikipediaより引用

義昭は信長包囲網を築き上げるというよりも、必死になって将軍としての権威を取り戻そうとあがいているようにも思えるのです。

このあたりは皆様お気づきでしょうが、もう【織田信長の物語】へと突入していきます。

義昭の攻勢に苦しめられる信長は、元亀3年(1573年)、三好三人衆・三好長逸や武田信玄らの死によって、急速に息を吹き返します。

信長包囲網は崩壊。

義昭は信長に鎮圧されてしまいます。

信長は、義昭の子・足利義尋(ぎじん)を擁し、三好義継を滅ぼすべく動きます。そして11月、若江城にて義継は自害を遂げるのです。

主家の三好家が滅びる中、久秀は静観を保っていたようにすら思えます。

天正と改元された12月、あの美麗なる多聞山城を無血開城し、久秀は信長の元に降りました。

天下を目指す信長にとって、美麗なる多聞山城は、その道のりを飾る一個の美しい珠玉であったことでしょう。

久秀は剃髪し「道意」と名乗りますが、本稿は、久秀のまま統一しますので、ご了承ください。

信貴山城で穏やかな老後を送りたい気持ちもあったかもしれませんが、彼の真意は不明です。明らかになっていることは、上り調子の信長が松永久秀という人物を手放さなかったことです。

1573年12月、久秀は、あらためて織田家臣として戦場に立つこととなりました。

久秀が統治してきた大和には、明智光秀ら織田家臣が入りました。

筒井順慶も、すでに信長の配下にあります。

そんな中、信長は多聞城の破却すら決めたことがあります。実行には映されませんが、なんとも複雑な心情も垣間見えます。

後世の私たちは、織田信長に特別な感情を持っています。

突如現れた、斬新な革命児であったとして、幕末の坂本龍馬を超える人気の人物でしょう。

けれども、その軌跡の前にはどうしたって、三好長慶と松永久秀の姿が見え隠れしています。

そのことを、信長や光秀がどう認識していたのか?

興味が尽きないことではあります。

 

信貴山城に散る

完全な破却は免れたものの、多聞山城は過酷な運命を迎えます。

その美麗なる建築が、安土城へと召し上げられているのです。

斬新であり、信長の築城技術の精髄たる安土城――遠くヨーロッパまで屏風が送られたという、あの安土城――それ以前には多聞山城があったのだ!!

その歴史は、複雑な痛みすら感じさせます。

信長は、まるで松永久秀という人間の心理を、解体するような冷酷さすら見せています。

・多聞山城を、作り上げた松永氏によって破却させ、自らの城へと移す

・宿敵である筒井順慶に、大和支配を委ねる

・高齢であり隠居していてもおかしくない久秀を、軍事動員し続ける

人生そのものを否定されるような仕打ちを受け、久秀がどれほど傷ついていたことか。

天正5年(1577年)、その鬱屈は、信貴山城の戦いという形で爆発します。

ただし、これは単発の暴挙ではありません。

・上杉謙信
・雑賀衆
・足利義昭を擁した毛利輝元

彼らと連携を取りつつ、義昭の上洛を最終目標としていたと思われるのです。

信長は、久秀に対して「どういう不満があるのか?」と、使者を派遣したほどです。

しかし交渉は決裂し「信貴山城の戦い」が開戦。

人質とされていた久通の二子は六条河原で処刑されました。

そして10月10日、久秀と久通父子は親子で自刃。

享年70(68説もあります)。

名物茶器である平蜘蛛の破損は、別の話です。

茶人の心意気として、切腹と平蜘蛛破壊が結びつけられた――平蜘蛛とともに爆発する最期は、第二次世界大戦後に生まれて広まった俗説に過ぎません。

死の日時と大仏殿。

それに平蜘蛛。

様々な像が結びつけられて、松永久秀は実像と異なる何かが死後に生まれていったのです。

 

松永久秀とは結局何なのか?

さて、松永久秀をどう思いますか?

あの毒々しい「ギリワン」とは何だったのか?

そう思ってしまいませんか?

松永久秀(落合芳幾1867年作)/wikipediaより引用

私は、心の底から彼に謝罪したい気持ちでいっぱいになりました。

謝罪だけでも足りないので、なぜ彼がこうなったのか、少し考えてみました。

松永久秀で思い出したのは、幕末の赤松小三郎です。

赤松小三郎の写真

赤松小三郎/wikipediaより引用

赤松小三郎は、当時、革新的な思想の持ち主であり、内戦回避にも動いてあり、政治的な発想についてはあの坂本龍馬を先んじる点すらありました。

薩摩藩と長州藩にとって都合の悪い人物ということもあるのでしょうが、龍馬の前にそれ以上の人物がいたということは、不都合な史実なのです。

前述のとおり信長と龍馬は、日本史で最も人気のある時代において、最も人気のある革命児です。

そのロールモデルがいると、輝きが少し薄れてしまう。そう思ってしまいませんか?

赤松小三郎は、忘却の中へと消えていきました。

松永久秀は、悪のベールで覆われていきました。

信長があげたという悪事だって、彼自身に言えた義理はないはずなのです。

久秀の、義輝や義昭への態度が不遜であるのであれば、信長のそれもそうでなければおかしい。久秀だけが悪人とされるのであれば、何かがおかしいのです。

久秀は、彼について語る者たちを映す鏡になりました。

語り手が思う悪人の像が、その中には映り込むのです。過剰なまでの悪辣さが、その像の中には映し出されてきたのです。

ついには、平蜘蛛を抱えて爆死する姿にまで、彼は昇華されました。

その時も、そろそろ終わるのかもしれません。

本稿の締めくくりに、あの人物を持ち出したいと思います。

柳生宗厳、のちの石舟斎です。

石の舟は沈まないというその号は、世の浮沈に関わらない剣豪としての矜持とされています。

若き日の彼が、松永久秀に期待を寄せ、裏切ることなく戦い続けたことを思うと、別の気持ちも見えてくる気がするのです。

人生の大半を賭けて来た、信じるべき主人が没落していった様子を見て、彼は何を思ったのか?

主人を滅ぼした信長。

そして光秀、秀吉。

そんな世の変転を見て、どう思ったのか?

深い大和の奥で、じっと世を見ていた彼の子は、徳川家康に仕えます。

一剣平天下――。

そんな柳生の思いは、松永久秀から徳川家康にかえて、日本に伝わりました。

柳生一族が石舟斎の子・柳生宗矩の代に大出世を遂げたこともあるのでしょう。

柳生家の残した『柳生文書』が伝わりました。

そこには、後世の悪意にまみれた姿ではなく、人として生き苦しむ――素の松永久秀の姿が残されていたのです。

 

【松永久秀の年表】

・1508年 生誕

・1541年 三好長慶に仕える

・1554年 足利義輝を京から追放

・1559年 大和国の統治を任される

・1561年 三好義興らと共に畿内各地を転戦

・1562年 教興寺の戦いで大活躍→武名を上げる

・1562年 最先端の城・多聞城の棟上

・1563年 三好義興死亡

・1564年 三好長慶死亡

・1565年 永禄の変で足利義輝を殺害

・1567年 東大寺大仏殿を焼失

・1568年 信長上洛で降伏→臣従

・1571年 武田と通じ信長を裏切ったとされる

・1573年 武田信玄死亡

・1573年 足利義昭追放(室町幕府の滅亡)

・1573年 久秀、再び信長に降る

・1577年 信貴山城の戦い→信長に反旗を挙げ、最終的に自刃

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

-三好家

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