絵・小久ヒロ

三好家

松永久秀は爆死に非ず!信長を二度裏切った男は梟雄どころか忠義の智将か

更新日:

2020年大河ドラマ『麒麟がくる』で、なかなか衝撃的なキャスティングが話題となりました。

松永久秀を演じる吉田鋼太郎さん。
そして「語り」を担当している市川團十郎さん。

二人は大河ドラマ『真田丸』と『おんな城主 直虎』で織田信長を演じておりました。

そんな彼らの一人が松永久秀を演じ、もう一人がそこにナレーションを入れるって、シュールだなぁと。

織田信長と松永久秀――。
この両者の関係は、史実でも非常に複雑かつ印象的ですから『麒麟がくる』でも大きな見どころとなりましょう。

その松永久秀が、最近の研究で、実像が変わりつつあります。

気品。
知性。
そしてワイルドさ。

歴史の歯車が一つ変わっていればイケメン智将で描かれてもおかしくなかったのではないか。
そう思わされるのです。

本稿では、松永弾正久秀の生涯を史実ベースで振り返ってみます。

【松永久秀概略】

1508年に生誕(推定)。
1541年より三好長慶に仕え、当初は文官として活躍。長慶に従い、主に畿内で精力的に働く。

1559年に大和国の統治を任されると、1562年教興寺の戦い(現・大阪府八尾市)で武名を挙げ、武将としての名も轟かせていくが、同時に芸術・建築などにも非凡な才を発揮し、当時、最先端の多聞城を建設している。

永禄の変(1565年)での足利義輝殺害や、東大寺大仏殿の焼失(1567年)など、現代では悪名が知られるも、実は久秀の所業にあらず(詳細は本文にて)。

1568年には上洛した信長に臣従しながら1571年には武田と通じて織田家を裏切ったとされ、1573年信玄の死を契機に再び信長に降った――かと思ったら、1577年に反旗。

「織田家の傘下に戻れ」という信長の説得にも応じず、信貴山城しぎさんじょうの戦いの末に息子と共に自刃した。
享年70(68説も)。

※日本三大梟雄の一人に数えられる(他に斎藤道三宇喜多直家

 

松永弾正久秀? ああ、ギリワン・ボンバーマンね

松永久秀――。
戦国ファンならば、その名を聞いただけでニッコリしてしまう、愛されキャラであります。

と言っても織田信長や真田幸村などのヒーロータイプとはまるで違う。

凶器攻撃と火を噴くパフォーマンスを駆使しそうな戦国随一のヒール枠。

『信長の野望』シリーズのステータスでは、義理が最低の「1」であります。
端的に言えば「裏切る人」であり、史実では、信長に二度従い、二度反旗を挙げたことで有名ですね。

かつて義理「2」としてヒール役を背負わされていた最上義光も、今ではすっかり評価が見直されていて、だからこそ久秀には頑張ってもらいたい――。

そんな風に思わせる最も象徴的なエピソードが、松永久秀の死に様でしょう。

【平蜘蛛の茶釜を抱えて爆死する!】

まるでマンガのような伝説で、今なお戦国ファンには「ボンバーマン」として人気を博しております。

しかし……。

松永久秀が平蜘蛛を割る場面(月岡芳年:1883年)/wikipediaより引用

近年の研究で、松永久秀はそこまで悪くなかったのではないか?とされ始めたのです。

ヒールな彼が大好きであった私も、これには驚いております。

では進んだ研究とは一体どんな内容なのか?

 

江戸時代と戦国時代の価値観は正反対

これは日本に限ったことではありませんが、乱世と太平の世で価値観が逆転することはままあります。

戦国時代には褒められた「戦場で敵を欺く」機転も、江戸時代に真似られたら大変。
そこで用いられたのが儒教道徳でした。

武士階級だけでなく庶民まできっちりと統制する必要があり、例えばこんな場面が考えられます。

【殺し / 仇討ち】

・「主人殺し」のような、目上の立場を傷つけた場合は武士以外でも死罪となる

・「仇討ち」は、基本的に目上の親族のみにできる
→子が親の仇討ちをする、弟が兄の仇討ちをする等

切腹

・戦国時代は、主君が臣下を守るための切腹があった
→例:清水宗治

・江戸期以降は、主君の切腹という最悪の不名誉を避けるため、家臣が戦い抜く
→例:会津戦争(西軍の求めた条件が松平容保の首級だったから)

こうした価値観の変遷が起き、戦国武将の評価についても、現在と江戸時代ではかなり異なっておりました。

【江戸時代で不人気枠の武将たち】

・織田信長
→残虐とされた行為が注目されたせいか、意外と評価が低い

直江兼続
→「大御所様(徳川家康)に喧嘩を売って主家(上杉家)を滅ぼしかけた」という奸臣評価も

・松永久秀
・斎藤道三
・伊勢宗瑞(北条早雲
→正体不明なのにのし上がってきた、つまりは目上に背いた、そんな枠はともかく嫌われる

【例外】
真田昌幸
→大名家の祖先であるため庇われる
→真田幸村ともども社会のガス抜き(反徳川アイコン)として高評価

・最上義光
→昭和期から評価が下落し逆転した、極めて稀有な例

現在は、織田信長も直江兼続も大人気の武将ですよね。

つまりは明治時代以降に再評価が進んだわけですが、そんな中で松永久秀は最後まで取り残された枠と言えましょう。

彼のぶっ飛んだヒールっぷりやエピソードが強烈かつ面白いがために、そのままにされていたのかもしれません。

では、実際のところはどうだったのか?

 

どこから来たのか? 松永久秀

実は松永久秀は、生年すらハッキリとはしていません。

大名家の男子ならば、祈祷、瑞祥、祝福と共に誕生が記録されます。
それがない場合には、没年から逆算するしかありません。

久秀の誕生年とされる永正5年(1508年)は、まさしくこの逆算によるものです。

生年が不明ですから、誰の子であるかもわかりません。
出生地すら、三説が混在しております。

【松永久秀の出生地三説】

・山城国(京都)西岡の商人説
→斎藤道三の商人設定を流用したように思える

・阿波国説
→傍証が不足している

・摂津五百住いおずみの百姓説
→江戸時代初期に同地出身「松永」姓の人物が、久秀との血縁関係を認識していた記録が残されている。悪名をふまえると、わざわざ無関係な人物が名乗るとも考えにくい

傍証の数を考えますと、出身は摂津五百住いおずみのでしょう。
百姓のやや上程度の身分であり、土豪の類ではないかと思われます。

それではちょっとつまらないと考え、後世の人々が話を盛りたくなる気持ちもわからなくはありません。
そんな願望が、彼の伝説にはつきまとっています。

 

三好長慶、世に出る

松永久秀は、ヒールとしての輝きゆえに色々と誤解が多いと指摘してきました。
それは主君だった三好長慶についてもそういえます。

三好長慶は、久秀よりも一回りほど遅れた、大永2年(1522年)に誕生。
幼名・千熊丸というこの少年は、苦難の少年時代を送りました。

天文元年(1532年)、11歳の時、父・三好元長が本願寺一向一揆勢により、堺で自害してしまったのです。

そこにはややこしい構造がありました。

三好元長
vs
細川晴元
vs
本願寺証如

弱体化した足利将軍家に代わって勃興した三つ巴。
まだ幼い長慶は、パワーバランスの中でなんとか助命され、その後、元服までたどり着いたものの、じっと息を潜めているしかありません。

天文8年(1539年)18歳で手勢を率いて上洛を果たし、やっと一勢力として認められます。

長慶は、何かあれば阿波国に逃げることはせず、近畿で勢力を築き上げようと決意。
周囲の大名を警戒し、外交を行い、内政や軍事の充実をはかりつつ、飛躍のときを待つのでした。

三好長慶/wikipediaより引用

こうした最中の天文10年(1541年)、久秀は仕え始めたとされています。

君臣一体となって、三好家の勢力は伸びていきました。
反比例するかのように、細川氏の力は低下。

ここで、我々後世の人間に、こんな考えが浮上してきます。

あのお坊っちゃま(そうかな?)の三好長慶が伸びていく。
その背後には、謀将・松永久秀がいたはずだ!(そういうものかな?)

三好長慶が伸びたのも松永久秀のお陰という考え方――そんな後世のバイアスは、取り除いて考えてみましょう。

実は、久秀の動きはそこまで特定できるものでもありません。

はじめは右筆、そのあと訴訟取次の奏者。
軍事活動が目立ち、一国一城の主にまでのぼりつめたのは、むしろ弟・松永長頼でした。

松永久秀がそんな秘書的裏方だったなんて嫌だ、遣り手の強引営業マンであって欲しい……そんな願望は横に置いときましょう。

私個人としましては、久秀の教養と態度に感銘を受けました。

出自を考えますと、それまで相当な努力を重ねて教養や芸術センスを身につけたと思えるのです。

教養の欠如は、この時代となるともう話にならない。
意識的に身につけようと動き、努力せねば、ここまで洗練されるものではありません。

松永久秀・悪人説の一要因として『性技テキスト』の執筆があげられます。

これも、あくどいナンパマニュアルだと解釈すればそうなるかもしれません。
しかし、東洋医学の知識も含まれており、寝室でのマナー破りをしないためのマニュアルならば、むしろ紳士的ではありませんか。

久秀の妻の数は、少なくとも二人が確認されてはいます。
側室もいたようですが、さほど多いとも思えません。

正室:松永女房(久通の母)
継室:広橋保子

久秀による、広橋保子の追悼は、きめ細やかなものでした。
そこからは、深い愛を感じさせるほどで、洗練された紳士のような実像が浮かび上がってくるのです。

 

足利義輝との対立

三好長慶のもとで踏ん張っていた松永久秀。
細川晴元と戦っていたところ、ある勢力が敵陣に加わりました。

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剣豪将軍とも称される足利義輝の死については、陰湿な松永久秀のせいで非業の最期を遂げる印象があります。

しかし、三好家から見れば、義輝の動向の方がおかしく映る。

「細川との喧嘩に今さら将軍がのこのこ来られても、わけがわかりません!」
というものでした。

かように混沌とする都周辺で、沸騰する諸勢力をにらみながら、文化活動も欠かさない。
そんな主君に尽くす久秀。

天文22年(1553年)ともなりますと、
【義輝が長慶を殺す】
という噂すら流れ出すほどでした。

細かく言うと、挨拶に出向いたところで暗殺する――そんな風に囁かれたのですから、長慶からすれば腹が立つ話でしょう。

長慶は義輝を殺す気だったか?

いや、そうではありません。細川支援から手を引けば、それまでのことではあります。
そこにはすれ違いがあったのでしょう。

将軍からすれば、権威を取り戻したい。
一方で他の勢力からすれば、鬱陶しい属性付きの支援者でしかない。

京都の人々にとっては、三好こそが支配者となりつつあった。
長慶にしても、幾度となく繰り返される和睦破りを我慢しながら、義輝には精一杯の譲歩をしていたのです。

しかしついに限界に達し、長慶は天文23年(1554年)、足利義輝を近江朽木に追放。
この一件に対する久秀本人の見解は、天文24年(1555年)、六角氏家臣・永原重興宛ての書状から伺えます。

「義輝側が、三好に対する約束破りをさんざんしてきて、細川支援をやめないわけです。もう限界です。そのうち天罰が降るんじゃないですかね。京都の平和が第一ですから、是非とも六角氏にはこちらについていただきたく願う次第です」

久秀は苦労を重ねつつ、そうした外交交渉を担っていたのです。
教養溢れる趣味もあり、文章も書ける、そんなスマート外交官としての像が見えてきます。

松永久秀には、連歌はじめ、当時必須とされた教養を身につけていたこともわかります。

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着目したいのは、
【三好長慶には義輝を立てる意図がなかった】
ということです。

このことが、いかに画期的であったか。
織田信長の足利義昭の態度に通じるものもあります。

信長のそうした態度だけがCOOLで、三好長慶と久秀が悪とされるのであれば、それはなぜか?

やはりそこにはバイアスがあるのでしょう。

 

大和侵攻と支配

足利義輝が天文23年(1554年)に京を追放され、弘治という元号がたった四年で終わり、永禄と改元されたその年。
義輝は、断固として改元に従わないどころか、挙兵しました。

しかも、メキメキと力を伸ばす毛利元就も、改元を拒否。
京都の秩序に大名が従う――そんな時代はほとんど崩れつつありました。

・斎藤道三
斎藤義龍
・長尾景虎(上杉謙信)
・武田晴信(武田信玄
・織田信長

各地で大名が力を伸ばし、時代は変わりつつあります。

こうなると、将軍の意味合いも変化します。
握ればキングメーカーとしての価値も生まれる。長慶も妥協を探る必要性が生じます。

長慶を利用して、幕府秩序の復活を狙う義輝。
義輝を利用して、諸大名にリードしたい長慶。
そんな同床異夢があるのです。

そうした状況の中の永禄2年(1559年)、松永久秀は大和の支配を任されました。

当時の大和は、多くの土豪が小競り合いを繰り返している状態であり、歴史ファンにとってはお馴染みの一族もうごめいておりました。

一例を挙げますと……。

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割と知名度のある武将たちですが、彼らのルーツについては不明な点も多いものです。

筒井順慶については、どうしても「洞ケ峠ほらがとうげを決め込む」優柔不断なイメージがあり、柳生は剣豪としての存在感が強い。
いずれもフィクションの影響を強く受けた存在です。

個人的な話となりますが、長年不思議に思うことはありました。

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そんな彼と、ムンムンとした悪党である松永久秀。
なぜ両者に繋がりがあるのか?

時代ものフィクションを読むたびに、接点が土地柄しかなく、人間性が真逆だった二人の関係に混乱していたのです。

その答えがようやくわかった気がします。

三好一族の総力を挙げ、平和の兆しすら見えない当時の大和へ、久秀らが安定をもたらすために攻め込んだ。
それが永禄年間の大和でした。

当時、現地で権勢を誇っていた安見宗房やすみむねふさや、その右腕たる筒井順慶。
こうした諸勢力を、大和の国人に支援を得て討ち取り、安定的な支配を狙ったのです。

筒井順慶/wikipediaより引用

この大和侵攻にしたって、久秀は「支配の挙句、酒池肉林を楽しんだ」というどうしようもない印象があります。

実際は、そうではありません。

筒井氏が圧迫していた春日社を復興し、国人たちが参拝を遂げているのです。
松永久秀は梟雄どころか、大和の救世主でした。

そんな中に柳生宗厳、後の柳生石舟斎がおります。

彼は戦乱に荒れ果てた大和を救う久秀に仕え、信頼を得ていったのです。大和の土豪で終わらぬために、久秀に期待と身を寄せたのでした。

戦乱の最中、久秀は倒れ、天下は荒れていきます。
石舟斎の子・柳生宗矩にとっての徳川家康は、父にとっての久秀でした。

大和の柳生庄に住んでいた一族が、天下人に剣術を指南するまでに上り詰める。
その軌道の背後には、そうした眼力と信念がありました。

主君としてみても、松永久秀は悪人ではありません。
大宝寺義氏あたりとは違います。

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これまた個人的な話で恐縮ですが、以前、旅行で大和を訪れました。
寺社破壊の跡は見つからず、古代の息吹すら残る、神秘的な景色が印象的でした。

松永久秀は、それを破壊するどころか、むしろそれを守った一人だったのか? と思うと、感慨深いものがあるのです。

 

下剋上の先駆者

当時の大和の勢力は、まるでスズメバチの巣のよう――。

そんなエリアを支配するのは途轍もない困難を伴います。戦国時代ですから、全国的に戦乱の傾向があったとはいえ、やはり大和は難儀な土地でした。

それでも三好長慶が踏ん張れたのは天下のためでした。

では、いったい「天下」とは何か?

『信長の野望』ならば、全国マップを塗りつぶすこと。
そのイメージが、どうにもしみついてしまっているのかもしれません。

永禄4年(1561年)であれば、畿内を支配する者に天下人の資格があったと言えます。

勢力を伸ばした三好長慶とその君臣には、異例の待遇が授与されました。

・三好義興(長慶の嫡男)と松永久秀、従四位下に叙せられる
→これより前、天文22年(1553年)に長慶、永禄三年(1560年)に三好長逸が従四位下
→同時に久秀は「源氏」姓の源久秀となる

・御紋(桐紋)授与

・義興に対する浅葱色の「御肩衣・御袴」着用許可

三好長慶一人の恩典であれば、そこまで重要でもないかもしれない。
しかし、後継者たる義興、そしてその義興を支える久秀までも含まれるとなれば、そこには血縁による継承が見えてきます。

義輝からすれば、王手をかけられたようなものと言えます。
傀儡となりつつあった。

ただ、同時に不安定要素もあるのでした。

そのひとつが、長慶の弟・十河一存の死です。

これも従来は、久秀が馬を用いて暗殺した逸話があったものですが、フィクションといえます。
動機も弱い。長慶の信頼を得ているからには、それを台無しにするような策を用いる必要性も感じません。

松永久秀は裏切りどころか、三好長慶・三好義興に対して一貫して忠義を示しています。
このころ久秀の役割は、秘書的なものではなく、武将としても発揮されておりました。

畠山氏に勝利し武名を挙げた1562年「教興寺の戦い」も、その一例でしょう。

とはいえ、才ある武将として評価されるには、それだけではもの足りないのが乱世のならわし。
求められる能力は他にまだありました。

「築城」です。

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石垣をどう積むか?
鉄砲伝来にどう対応するか?

そうしたスキルがなければ、笑い者になりかねない。
この点から見ても、松永久秀は抜群のセンスがありました。

 

多聞城は全く新しい夢の城

それが永禄5年(1562年)棟上の多聞山城でした。
多聞とは毘沙門天のことであり、信仰心のあらわれとされています。

毘沙門天信仰と言えば、上杉謙信ですよね。
そんな軍神と、あの久秀が同じだなんて嫌だな……そんなイメージもあるかもしれませんが、久秀の信仰心を疑うのはやめておきましょう。

この城は、奈良の北にあります。毘沙門天とは北の守護神でもある。

奈良の北を守る毘沙門天に自らを重ねたい、そんな真剣な思いすら感じさせるのです。

こうして見ていると、松永久秀に対して、いろいろと本当に申し訳ない気持ちになってきました。

だってさ。
彼は責任感が人一倍強いではありませんか。

松永久秀が手塩にかけ完成した多聞城は、大和の人々のみならず、宣教師も驚いたと言います。

・ヨーロッパの城のような高層構造

・白壁に黒い瓦という、モノクロームの洗練されたデザイン

・杉を豊富に使い、その香りでも訪問者を喜ばせる

・庭園と樹木も美しく整えられ、見ているだけで目の保養

内装の彫刻、絵画……何もかもが美しく、軍事面での備えもバッチリ。

同時代の人々にこう評されています。

「日本で最も素晴らしく、美しい城!」
フロイス『日本史』

「あまりの華麗さに、来訪者が皆ビックリ!」
『兼右卿記』

夢のような城ではありませんか。

この多聞城は、後に織田信長がそのセンスに嫉妬……というと語弊がありますが、ともかくインスピレーションを受けた建築であることは確かなのです。

あまりに華麗な城は、華麗な才能あってのもの。久秀は当時随一のセンスの持ち主でした。カッコいい……。

建築だけではありません。
松永久秀は、文化芸術でも天下掌握をめざしていたような、洗練されたふるまいが見て取れます。

その一例が茶会でした――。

棟上げの翌年、永禄6年(1563年)に松永久秀は茶会を開催しました。

参加者は、もちろん当時の有力者たち。
そこには見る者の耳目を集める芸術品、美術品を並べておりました。

当時、中国・明朝では、こんなことが言われておりました。

「現地ではどうでもいいようなものでも、日本に持っていけば高値がつくからチョロいよね!」

しかし久秀のようにセンスある人物となれば、明から来た文物の中から、これぞというものをチョイスできたのです。
【明】という看板だけでもプレミアがつくのに、その最高級品を惜しみなく並べている。

これだけで、来場者の気持ちがたかぶるだけではなく、冷や汗もにじむようなことなのです。

一例として、牧谿もっけい作「煙寺晩鐘図えんじばんしょうず」(国宝・畠山記念館蔵)は、松永久秀が所有していたことがあります。

牧谿作の国宝「煙寺晩鐘図」(畠山記念館蔵)/wikipediaより引用

国宝級の美術品が集まる、日本一華麗な建造物での茶会――。

権力者とは、政治軍事だけでなく、文化芸術での支配をも同時に行います。

エリザベス1世は、シェイクスピアを援助し、その演劇鑑賞を好みました。
ルイ14世は、バレエを踊ることでその華麗さを見せつけました。

日本では、茶会や能楽が、将軍や武将に愛されたものです。
久秀には、紛れもなくこうしたセンス、それも一流のものがありました。

 

久秀と宗教

織田信長と松永久秀――。

両者を並べて
『ここまで重なるのか……』
と感嘆してしまうのが、キリシタンへの待遇です。

永禄2年(1559年)、イエズス会所属の宣教師カスパル・ヴィレラ(ポルトガル人)が上洛。
足利義輝と三好長慶から布教の許可を得ました。

外国人の動きというものは、どこに権力があるか見通す上でも重要です。
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