最上義光

最上義光像

最上家

最上義光(政宗の伯父)は東北随一の名将!誤解されがちな鮭様の実力

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これからは外交の時代だ! 義光の方向転換

天正13年(1585年)あたりまでに、最上義光は村山地方を支配下に置きました。このころ周囲にも情勢の変化が訪れます。

まず、彼が交流をもっていた織田信長が天正10年(1582)本能寺の変で討たれています。

奥羽の大名にとって、上方との外交交渉窓口はこれで一旦リセット。今までの努力が水泡となり、がっかりした者も多かったことでしょう。

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一方で助かった勢力もあります。織田家の脅威にさらされていた上杉景勝です。

息を吹き返した彼らは、庄内地方にまで目を向けることができるようになります。

そして隣の伊達家です。

天正12年(1584年)、義光にとっては甥にあたる伊達政宗が伊達家当主となりました。

義光も父・義守と比べれば強硬に支配するタイプでしたが、政宗はそれ以上。婚姻関係を背景に影響力を及ぼし、他家を支配下に置く伊達家当主代々の姿勢を踏襲しながら、持ち前の武勇と才知を用い、さらなる飛躍を目指していたのです。

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ここでよくある誤解を訂正しなければいけません。

フィクションで描かれるように、義光と政宗は常に対立していたわけではありません。

義光は、政宗に頼まれれば援軍も出しましたし、季節の挨拶や贈答を欠かさない関係でした。義光は西の出羽、政宗は東の陸奥で領土を拡大していたので、互いに正面からぶつかり合うことはなかったのです。

両者が険悪な関係になるのは、互いに領土と影響力を拡大しつつあった、天正14年(1586年)の大崎合戦からです。

この戦いは大崎家中の小姓の争いから端を発し、大崎家当主の義隆と、家宰の氏家吉継が対立することになりました。

政宗は氏家吉継を支持して介入、一方で義光は正室の兄にあたる義隆を支援します。

伊達と最上の代理戦争の様相を呈したこの合戦ですが、両者ともに他に注力すべき敵がおり、長引かせたくはありませんでした。

しかし、ここであっさりと手を引いたら両者ともに顔が立ちません。

そこで事態の解決に動いたのが、伊達政宗の母であり、最上義光の妹であるお東の方(義姫伊達輝宗正室)です。

彼女は伊達と最上の陣の真ん中に約80日間も居座り、和睦交渉を主導しました。

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義光は、表面上は「伊達が輝宗の妻まで持ち出してグダグダと言うから和睦してやった」というポーズを取りました。内心は妹をダシに和睦にこぎつけてほっとしていたことでしょう。

実のところ、義光は庄内で問題を抱えており、大崎家に介入している余裕はなかったのです。

 

「日本海で採れる鮭が食べたかったから」ではなく……

村山地方を支配した最上義光が次に目を付けたのは、西の庄内地方でした。

同地方を望んだのは「日本海で採れる鮭が食べたかったから」なんて“鮭好きの伝承”もありますが、それはさておき海をおさえれば京都まで水運ルートを確保できます。

そして天正11年(1583年)、庄内を支配していた大宝寺義氏が家臣の謀叛によって横死を遂げた後、義光はついに念願の庄内を手に入れました。

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ところが義光が大崎合戦とその後の処理で東に目を奪われていた天正16年(1588年)、最上勢は十五里ヶ原の戦いで上杉景勝の家臣である本庄繁長に大敗し、庄内を失ってしまったのです。

義光の領土拡大は、ここで一旦停止することになります。

同年閏5月、義光は上方から遣わされた金山宗洗を山形に迎えました。

このとき義光は、

「金山宗洗来訪の目的は、出羽の者たちが山形(=最上義光)の下知に従っているか監視に来たのである」

と喧伝しました。

豊臣秀吉は義光を通して出羽の戦乱をおさめようとし、義光は秀吉の威によって支配力を強めようとしたのです。

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義光は秀吉の【惣無事=停戦】の意向をくみ取り、これからは戦っても無意味であり、かつ秀吉は臣従を求めているのだと理解しました。

合戦をせずに勢力が拡大できるというのは、義光にとって歓迎すべき方針です。義光はしばらくの間、豊臣政権下での優等生として振る舞うことになります。

つまりは舵取りを大きく方針転換したのです。

「これからはもはや武力でどうこうする時代ではない。求められているのは外交力、交渉力だ! いち早く上方の支配者に認められた者こそが出羽の支配者となる」

織田信長の後継者である豊臣秀吉の権威を後ろ盾にすれば、失地回復も夢ではない――。

実はそう考えたのは義光一人だけではなく、奥羽では津軽為信や戸沢盛安も同じでした。彼らはフットワークも軽く、上方への交渉ルートを探ります。

そして失った庄内も惣無事違反であると訴えれば、取り戻せるのではないか? と義光は考えます。

しかし、すぐさま壁にぶつかりました。

庄内をめぐり義光と対立していた上杉景勝は、既に豊臣家の重臣である石田三成を通して強いパイプを持っていたのです。

三成を交渉窓口として使えない義光が目を付けたのは、徳川家康でした。

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家康とは歳も近く性格的にもウマが合った

最上義光は、家康が好きな鷹や名馬を贈り、接近を試みました。

東国武士の支配者として豊臣政権の重鎮となりつつあった家康にとっても、義光は歓迎すべき相手であったことでしょう。

義光は家康を味方につけて庄内奪還を画策しますが、なかなか思うようになりません。

しかしこの時の、家康の誠意ある対応に義光は好感を抱きます。義光と家康は歳も3歳差と近く、性格的にも相性がよかったようで、その信頼は死ぬまで続くことになります。

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義光が豊臣政権下の優等生ならば、さしずめ政宗は問題児です。

政宗は惣無事を無視、天正17年(1589年)には【摺上原の戦い】で大勝利をおさめ、会津蘆名氏を滅亡させました。義光は政宗を警戒し、監視しながら、秀吉の次の一手を待ち続けます。

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そして天正18年(1590年)、秀吉が動きます。

小田原征伐】に乗り出し、その際、奥羽の大名にも参陣するよう命を下したのでした。

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義光はもちろん参陣の予定でしたが、問題は政宗です。

この参陣の前夜、お東の方による政宗毒殺未遂事件、それにともなう伊達小次郎斬殺事件が発生した、とされています。

事件の真相は不明で、本当に事件があったのか、小次郎が殺されたのかも含めて、諸説あります。

フィクションではこの事件の黒幕が義光とされることがあります。

しかし、彼にはそんなことをしている余裕も動機もありませんでした。

義光自身が参陣に向けて準備をしていたわけですし、そもそもそんな事件を起こして発覚したら、豊臣政権からどんな目に遭うかわかったものではありません。むしろ義光は、政宗にスムーズに参陣して欲しくてたまりませんでした。

大崎合戦で義光が手を引いた結果、大崎家は伊達家の支配下に入っていました。伊達家に何かあれば、正室の実家である大崎家にも悪影響が及びかねません。

ともかく何事もなく参陣するよう、義光は気を揉んでいたのです。

しかも折悪しく父・栄林が危篤となりました。義光は父の葬儀のために遅れると、事前連絡をして許可を取り付けます。

父の葬儀を終えると、義光は政宗よりも遅れて小田原に参陣します。

このとき義光は、小田原手前の酒匂川で徳川家康によって出迎えられ、秀吉への取りなしを受けます。

徳川勢が出迎えることは予定通りでしたが、家康本人まで出迎えたのは義光にとって予想外に嬉しいコトでした。こうしたことからも家康への傾倒が利害を超えたものになっていくのですね。

義光はいち早く豊臣政権に正室を人質として出し、「他の大名も出羽守(義光)を見習うように」と言われるほど、優等生らしく振る舞い続けました。

政宗が陸奥の代表、義光が出羽の代表として、甥と伯父は中央政権から認められたのです。

上洛して京屋敷で暮らすようになった義光は、文人としても活躍します。

義光が最も得意としたのは、当時茶の湯と並ぶコミュニケーションツールでもあった連歌でした。

持ち前の文才と『源氏物語』、『伊勢物語』に通暁する才知を生かした義光は、名高い連歌師の里村紹巴からも高い評価を受けます。

戦国武将の連歌発句数ではレジェンド細川藤孝(細川幽斎)に次ぐ第2位。

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中でも、次の一句は絶賛されました。

「梅咲きて 匂ひ外なる 四方もなし」

【意訳】春が訪れて梅が咲き誇り、香りがあたり一面に満ちあふれています

大名としても、文人としても、成功をおさめたかに見えた義光。

しかしそんな義光を待ち受けていたのは、豊臣政権による惨い仕打ちの数々でした。

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