毛利輝元

毛利輝元/wikipediaより引用

毛利家

毛利輝元は関ヶ原の西軍総大将~なのになぜ敗戦後も家の存続を許されたのか

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動かぬ西軍総大将

そして迎えた9月15日――いざ関ヶ原の戦いが始まると、南宮山の毛利勢はピクリとも動きませんでした。

毛利勢を率いる毛利秀元のもとに、出陣を促す使者は幾度も届きます。

しかし、そのたびに「弁当を食べているから出せない」という断りの文句が返ってくる。

いわゆる【宰相殿の空弁当】として知られる話で、まだ若い秀元は、吉川広家が目を光らせる中、どう動きようもありません。

輝元も、秀頼の護衛を名目に大坂城から動てゆきません。

かくして、この大決戦はわずか一日、西軍の敗北で終わりますが、天下一の城砦とも言える大坂城に毛利輝元が居残っては、東軍にとって厄介な話でした。

どうすれば戦わずして大坂城から追い出すことができるか。

政治的な人参をぶら下げるのが一番だろう……ということで、家康は、黒田長政福島正則を通して、毛利にこう伝えさせます。

「今回の件で、毛利に責任は問わない。本領安堵とする」

輝元はこれを聞くと西ノ丸を出ました。そして関ヶ原における反徳川の動きは、すべて安国寺恵瓊の単独暴走ということにしてしまったのです。

もはや誰からも見捨てられた安国寺恵瓊は、後日、石田三成西行長らと共に六条河原で斬首。

毛利としては、どうにかこれで終わりにしたいところですが、その後、家康は態度を硬化させてゆき、厳しい結論が出されました。

毛利家は改易とし、全領土を没収――。

この処断に大慌てになったのは吉川広家です。

広家は、自身に与えられるはずであった周防・長門を毛利本家に差し出し、家名を残すよう、家康に訴えたのです。

 

長州藩祖として、藩の基礎を築く

首の皮一枚残して、どうにか家名を存続できた毛利家。

最終的に36万9千石の大名として存続を許され、出家した毛利輝元は、家督を嫡子の毛利秀就(ひでなり)に譲りました。

毛利秀元は調布藩主6万石です。

とはいえ輝元は完全に引退したのではなく、長州藩では秀就との二元体制が取られました。

輝元は、萩城を築くなどして長州藩の基礎を固め、元和9年(1623年)9月、正式に秀就へ家督を譲りました。60年という長い治世はかくして終わったのです。

寛永2年(1625年)に病没で享年73。

長州藩祖の静かな最期でした。

毛利家にはこんな伝説がありました。

「殿、今年は兵をあげられますか?」

「まだ早い」

毎年、正月になると、憎き徳川を想定して、討つかどうかの問答をしていたというものです。

おそらくは後世の創作でしょうが、果たして毛利はそこまで徳川を恨む筋合いがあったでしょうか。

明治以降、長州閥が他の派閥から逆恨みを警戒したことは確かです。

日本各地の城砦を破壊し尽くし、各藩の心理的な拠り所をなくす。

東北諸藩を蝦夷地開拓に送り込み、再起させぬようにする。

政治から敵対勢力を徹底して排除して【藩閥政治】を断行。

明治になってまで、何もそんなことをしなくてもよいではないか……と当時から嘆かれたものです。

そうした怨恨を辿る上でも、家を危うく潰しかけた毛利輝元のことを冷静に再考するのは大切なことかもしれません。

悪役に仕立てられた安国寺恵瓊はどこまで責任を追及すべきだったのか。

吉川広家は、本当に家を守った忠臣なのか。

毛利輝元の意向はどこまで反映されていたのか。

いずれも後世のイメージが強く、どこまで実像かどうか詳細不明なところも多いものです。

今後の研究結果を待ちましょう。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
渡邉大門編『秀吉襲来』(→amazon
渡邉大門『清須会議』(→amazon
別冊歴史読本『野望!武将たちの関ヶ原』(→amazon
小和田哲男『秀吉の天下統一戦争』(→amazon
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(→amazon
日本史史料研究会・白峰旬 『関ヶ原大乱、本当の勝者』(→amazon
本郷和人『日本史のツボ』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon

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