毛利輝元

毛利輝元/wikipediaより引用

毛利家

毛利輝元は関ヶ原の西軍総大将~なのになぜ敗戦後も家の存続を許されたのか

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天下人・秀吉につく西の雄

まずは足利義昭が、怨敵・信長の死を喜んで毛利に伝え、「明智光秀に加勢せよ」と頼んできました。

毛利としては、当然、困惑します。

謀反人の光秀を担ぐなんて危うい。その光秀を推挙する義昭もまた味方をするには心許なく、実際、明智光秀は【山崎の戦い】で秀吉に呆気なく敗れています。

次なる選択は柴田勝家か、あるいは羽柴秀吉か。

これが、なかなか決められない……というところで秀吉はとっておきの人材を毛利に派遣してきました。

播磨生まれの智将、西国の情勢に詳しい黒田官兵衛孝高です。

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毛利側は安国寺恵瓊を外交担当者として黒田に当たらせ、羽柴改め豊臣秀吉に接近。

天正11年(1583年)に入ると、一気に時代が動き始めます。

同年4月に起きた【賤ヶ岳の戦い】で秀吉が、柴田勝家を相手に勝利を治めたのです。

これにより秀吉による織田家の掌握が確定し、半年後の10月に毛利は、小早川元総(小早川隆景の養子)と吉川広家(吉川元春の子)を秀吉のもとへ送りました。ただし広家は早々に戻されています。

そして天正12年(1584年)、毛利輝元と小早川隆景に朱印状がくだされました。

中国地方支配がようやく認められたのです。

かくして【四国攻め】や【九州攻め】では、毛利が先頭に立ち、活躍を見せることとなりました。

秀吉には、明への出兵構想があったとされます。

その折には西国大名を先陣として動員したい。言うまでもなく毛利はその筆頭。滅ぼす相手ではなく、重要な味方である――として西国征伐においても毛利の意見を聞き入れました。

実際、甥である秀秋を小早川家に養子として入れ、当主にするといった関係も結び、豊臣政権として毛利を重視。

文禄4年(1595年)に【五大老】の一人として毛利輝元が指名されたのは当然のことでした。

しかし……。

 

秀吉の死後 迷う輝元

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が亡くなると、毛利輝元は不明瞭な動きを繰り返します。

敢えてそうしていたというより、豊臣政権の行方を巡って連続する急展開に対処できず、焦っているかのような印象。

なんとか三成と、それに反対する連中を押さえつけねば――残された書状からは、そんな焦燥感が伝わってくるのです。

しかも輝元は、家康と義兄弟の契りも交わしました。

煮え切らぬ態度のままの輝元には、頭痛の種がありました。

長年男子がいない輝元は、従兄弟の毛利秀元を養子にしていたところ、文禄4年(1595年)、念願の男児(のちの毛利秀就)が生まれてしまったのです。

こうなると、秀吉に可愛がられていた秀元が邪魔になってくる。秀元を押し除ける裁定を、どうにかして石田三成から引き出せないものか。

と、そんな思惑を込め、秀吉の死後、三成に接近しているとも思える状況にあったのです。

ただでさえ味方が少ない三成にとって、毛利輝元は非常に有効な駒。

如何にして今後の展開を迎えるか、考えていたであろう時期に、思いもよらぬ事件が起きてしまいます。

【石田三成襲撃事件】です。輝元としてもこれには弱りました。

そして慶長4年(1599年)閏3月、伏見城に家康が乗り込んでくると、こんな態度をとります。

「われら共に、秀頼公を疎かにせぬと誓おうではありませぬか」

東西両方に目配せするといえば深慮遠謀のようで、煮え切らぬ優柔不断とも言える。

天下の趨勢は刻一刻と変化しているのに大国の主君としてどうなのか。

慶長5年(1600年)、【五大老】の一人・上杉景勝を討伐すべく徳川家康が会津へ向かうと、このとき輝元は広島に戻り、祖父元就の三十三回忌を行っています。

このときは、ぬかりなく九州北部情勢へ手を伸ばしていました。

九州には、大友義統という失地回復を狙う勢力があります。そこに介入する機会を狙っていたのです。

そして慶長5年(1600年)7月19日、家康の背中をつき、【五奉行】の一人である石田三成が挙兵しました。

三成は、西軍総大将を輝元にしたいと恵瓊に打診。

これに応じて大坂城へ入ります。

一方の家康もすぐさま手を打ってきました。毛利一門の吉川広家と親しい黒田長政を用いて、東軍に味方するよう接触させていたのです。

長政と語り合う吉川広家は、三成に味方をする賭けは危険であると悟りました。

そこで恵瓊に唆されたというシナリオを組み立て、家康にこう弁明していたのです。

「わが主・輝元は、石田三成の挙兵計画に賛意は示しておりません。安国寺恵瓊めの企みにすぎぬこと……」

広家は工作を進めます。

本多忠勝井伊直政は、毛利の本領安堵の誓書を送ってきます。

東軍についた将たちも、それに賛同する書状を届けてきており、家康の策は順調に進んでいました。

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