佐久間信盛

佐久間信盛/wikipediaより引用

織田家

佐久間信盛の生涯|なぜ織田家の重臣は信長に追放されたのか?退き佐久間の末路

2025/01/15

天正10年(1582年)1月16日は佐久間信盛の命日です。

信秀の代から織田家をサポートし、その嫡男・信長にも仕えた重臣中の重臣。

戦場から退却するときに「殿(しんがり)」を務めるのが得意だったことから「退き佐久間」とも呼ばれ、一時は筆頭家老となるのですが、天正8年(1580年)、突如、不幸に見舞われます。

織田家から追放されてしまったのです。

いったい何が起きたのか?

『長篠合戦図屏風』の佐久間信盛/wikipediaより引用

佐久間信盛の生涯を振り返ってみましょう。

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器用に卒なくこなすタイプの佐久間信盛

佐久間信盛の生まれた佐久間家は尾張の土豪といった感じの家柄で、織田信長の父・織田信秀と協力関係にありました。

織田信秀/wikipediaより引用

その縁で信盛も幼いころの信長に仕え始め、家督争いなどでも信長方についています。

また、前述の通り、殿(しんがり・撤退の際、最も後方で敵に近い位置になる部隊)を得意としたことから「退き佐久間」とあだ名される戦上手でもありました。

信長の信頼も厚く、桶狭間の戦いや各地での一向一揆など、主だった戦にはほとんど参加。

いわゆる「股肱の臣」という立場ですね。

それでいて武辺者というわけでもなく、信長の長女・徳姫が家康の長男・信康に嫁ぐ際に付いていったり、機内の実力者・松永久秀と交渉して味方につけたり、外交も任されていました。

一芸に秀でているというよりは、なんでも器用にこなすタイプというほうが近いでしょうか。

その辺、同じく織田家臣の丹羽長秀を彷彿とさせるかもしれません。

しかし時が経つにつれ、信盛はその信頼を裏切るような行動をいくつかやらかしてしまいます。

 


自分だけ無傷だった三方ヶ原

一つ目は、あろうことか信長の最大の協力者・徳川家康の危機に関することでした。

元亀三年(1572年)、家康が武田信玄とぶつかりあった【三方ヶ原の戦い】で、織田家の援軍として戦場へ向かった佐久間信盛は、戦場でほとんど活躍することなく退却しておりました。

三方ヶ原古戦場碑

そもそも織田家から派遣された援軍が信盛をはじめ水野信元や平手汎秀(ひらてひろひで)など、わずか3,000だったため、信長としては「信玄との直接対決を控えるよう、家康を監視するため佐久間らを送ったのではないか」という指摘もあります。

そう考えると、信盛はほとんど味方に損を出さず「退き佐久間」の異名通りの働きをしておりました。問題はないはずです。しかし……。

このとき信盛と共に織田家から派遣された平手汎秀が討死してしまったのが痛かった。

信長の爺やこと平手政秀の子(あるいは孫)とされる汎秀です。

汎秀は、猪突猛進タイプの武将で、三方ヶ原でも無茶な戦いの末に討死したとされますが、信長にとっては大事な家臣が死ぬ気で槍働きをしていたのに、それを見捨て、自分の部隊だけ無傷というのはさすがにバツが悪いものでしょう。

『テメーだけ逃げたな!?』

そう思われても仕方のない場面です。

そして二つ目の失態は、朝倉義景を追い詰めるときのことでした。

 

戦の失敗を信長に叱られ、あろうことか反論す

天正元年(1573年)夏のことです。

かねてから何度も戦を重ねてきた朝倉家と織田家。

朝倉は浅井長政と同盟を結んでおり、織田軍が浅井の本拠地を囲み始めたときに朝倉義景が珍しく自ら戦地へ赴いてきました。

朝倉義景/wikipediaより引用

それまではイトコの朝倉景鏡に戦を任せるなどして、義景はほとんど積極性がなく、さすがの景鏡も呆れ果てていたのか、合戦への参加を拒否します。

だからでしょうか。半ば仕方なく近江にやってきた義景は、浅井家の本拠地・小谷城付近に陣を設置するも、織田信長に奇襲を仕掛けられると、密かに撤退の準備を始めてしまうのです。

以降、重要場面のあらましを記しますと……。

織田軍が、いよいよ当主の義景を追い込もうとしたときのこと。

信長が家臣たちに向かって「お前ら、朝倉が越前に戻りそうになったら死ぬ気で追撃しろよ! オレ、なんども言ったからな、わかってんだろうな!(超訳)」と厳命したにも関わらず、油断したのか、家臣たちはスッカリ出遅れてしまう。

結局、先陣を切ったのは信長――。

越前の朝倉攻略に成功し、義景を敗死させる。

合戦が終わった後、怒り心頭の信長は「おまえら何やってたんだ!!!」と家臣たちを叱るのだが、佐久間信盛はこう切り返した。

「信長様、そう怒られましても、我々ほど有能な家臣ってのも、なかなかいないんじゃあーりませんか?(超訳)」

うーん、さすがにこの言葉はまずいですよね……。

いくら重臣とはいえ、自分たちの怠慢で義景の監視を失敗していたのに、それを棚に上げて「自分たちは有能ですから」発言。

誰だって怒りを覚えることでしょう。

とはいっても、この時点では信長にとって信盛の功績のほうが大きいと思われたようで、しばらくは実質的なお咎めは受けていません。

重要な一戦となった天正三年(1573年)【長篠の戦い】にも参加しておりますしね。

長篠合戦図屏風/wikipediaより引用

しかし、さらにもう二つのやらかしをしてしまいます。

水野信元を追い込んでしまったのです。

 

難敵・石山本願寺攻めの総指揮官に任命されて

徳川家康の伯父である水野信元。

もともとは今川義元と織田家が争っているときその狭間におり、織田家になびいた武将です。

信元は、家康の母・於大の方の兄でもあります。

その信元に「裏切りの兆候がある」と信長へ報告し、家康の家臣に信元を誅殺させたのが佐久間信盛とされています。

水野信元の領地と城は信盛のものになり、後々火種となりました。

そして信長に追放される決定的要因が、石山本願寺攻略における働きです。

信盛は天正四年(1576年)、石山本願寺攻略の総指揮を任されるのですが、

織田家の中で一・二を争う兵数を用意できたにもかかわらず、力攻めも謀略も仕掛けず、丸四年を無為に過ごしたとして叱責されます。

といっても石山本願寺の攻略は難易度Sクラスです。

織田軍と石山本願寺が約10年にわたって激突『石山合戦図』/wikipediaより引用

鉄砲傭兵集団で信徒の雑賀衆が防御に入っていたとされ、鉄砲の威力が凄まじすぎて城へは近づけない有様。

信長が足を撃たれて怪我をすることもあったほどです(以下にその詳細記事がございます)。

天王寺砦の戦いで信長撃たれる!雑賀衆の怖さ|信長公記136~137話

続きを見る

しかも、その間、紀州征伐や松永久秀との戦いにも駆り出されています。

全方位を敵に囲まれている織田家では、石山本願寺だけを相手にすることもできなかったんですね。

ただし、自分の持ち場があって、他の合戦に参加させられるのはなにも佐久間信盛だけでなく、柴田勝家や豊臣秀吉、明智光秀など、織田家の名だたる武将たちは皆、その役目をこなしておりました。

つまり織田家のトッププレイヤーたちは、同時進行で凄まじい功績を積み重ねていたのです。

一方、丸四年という時間を費やして、ほとんど成果を上げられない佐久間信盛。

ついに信長はしびれを切らし、自ら朝廷を通じて本願寺との和睦にこぎつけます。

天正8年(1580年)のことでした。

 


19箇条の折檻状

本願寺と和睦が結ばれた同年、佐久間信盛は、19か条にも及ぶお叱りの手紙(折檻状)を信長から突きつけられます。

かつて信長は、足利義昭に対しても十七条の意見書を出していますし、細々した指摘が得意だったのかもしれませんね。

信盛への折檻状は、意訳の上でまとめるとだいたいこんな感じになります。

「光秀も秀吉も勝家も、みんなお互いに切磋琢磨して手柄を上げているのに、なんでお前だけ五年も同じ相手に手こずってるんだ?

自分一人で何とかできそうにないなら、素直に俺に報告して支持を仰ぐべきなのに、それもしなかったよな?

水野家の家臣を自分に仕えさせるかと思えば、追放したとも聞いている。

一体どういうつもりなんだ?

お前の息子も評判が良くないし、親子揃って俺をナメてるのか?

死ぬ気で戦功を立てるか、謀反のつもりがないなら今すぐ高野山に入って頭を丸めろ。

わ か っ た な」

怖すぎ……。

信盛はこの手紙を受け、もはやこれまでと思ったか、嫡子・信栄と共に高野山へ入るのです。

しかし、そこも追われ、自分の臣下にも見捨てられ、熊野の地で亡くなったときには、信栄と小者一人しかついていなかったとか……。

信長も、信盛がすぐに亡くなるとは思っていなかったのか、信栄のことはすぐに赦免してやっています。

ずっとついてきていた小者はその忠義を賞され、士分に取り立てられたと言います。

 

最初から織田家の家臣ではなく当初は協力者だったから?

赦免の直後、佐久間信栄は織田信忠に仕えておりました。

程なくして本能寺の変が起きると、その後は織田信雄のもとへ。

信雄が改易された後は茶人として秀吉に仕えていたとか。

当人は、本願寺との対陣中にも茶道に精を出していたらしいので、願ったり叶ったりだったかもしれません。

まぁ、信長としてはキレたくもなりますよね。

信長にとって茶席や茶器は「領地の代わりになる便利なもの」というのが第一ですから、それにうつつを抜かすなど言語道断なわけですし。

「小さい頃から仕えていたのに、なんで信長の性格や価値観がわからなかったのか」とツッコミたいところですが、これは佐久間家が最初から織田家の家臣ではなく、「協力者」という立ち位置だったことから来ているのかもしれません。

上記の折檻状で挙げられた武将たちは、最初から信長の下の立場になっていたので、勘気を蒙ったらどうなるか……という視点はあったでしょう。

しかし、元は同等の立場だった信盛には、時勢と自分の立ち位置が変化していることがわからなかったのだと思われます。

空気を読む力って、戦国時代でも大切だったんですね。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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【参考】
国史大辞典
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸純夫・片桐昭彦 (編集)『戦国武将合戦事典』(→amazon
佐久間信盛/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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