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【佐久間信盛】
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19箇条の折檻状
かくして本願寺と和睦が結ばれた同年、信盛は、信長から19か条にも及ぶお叱りの手紙(折檻状)を突きつけられました。
かつて信長は、足利義昭に対しても十七条の意見書を出していますし、細々した指摘が得意だったのかもしれませんね。
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信盛への折檻状は、意訳の上でまとめるとだいたいこんな感じになります。
「光秀も秀吉も勝家も、みんなお互いに切磋琢磨して手柄を上げているのに、何でお前だけ五年も同じ相手に手こずってるんだ?
自分一人で何とかできそうにないなら、素直に俺に報告して支持を仰ぐべきなのに、それもしなかったよな?
水野家の家臣を自分に仕えさせるかと思えば、追放したとも聞いている。一体どういうつもりなんだ?
お前の息子も評判が良くないし、お前ら親子揃って俺をナメてるのか?
死ぬ気で戦功を立てるか、謀反のつもりがないなら今すぐ高野山に入って頭を丸めろ。
わ か っ た な」
怖すぎ……。
信盛はこの手紙を受け、もはやこれまでと思ったか、嫡子・信栄とともに高野山に入りました。
しかしそこも追われ、自分の臣下にも見捨てられ、熊野の地で亡くなったときには、信栄と小者一人しかついていなかったとか。
信長も信盛がすぐに亡くなるとは思っていなかったのか、信栄のことはすぐに赦免してやっています。
ずっとついてきていた小者はその忠義を賞され、士分に取り立てられたとか。
最初から織田家の家臣ではなく当初は協力者だったから?
赦免の直後、信栄は織田信忠に仕えておりました。
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信雄が改易された後は茶人として秀吉に仕えていたとか。
当人は、本願寺との対陣中にも茶道に精を出していたらしいので、願ったり叶ったりだったかもしれません。
まぁ、信長としては、そりゃキレたくもなりますよね。
信長にとって茶席や茶器は「領地の代わりになる便利なもの」というのが第一ですから、それにうつつを抜かすなど言語道断なわけですし。
「小さい頃から仕えていたのに、なんで信長の性格や価値観がわからなかったのか」とツッコミたいところですが、これは佐久間家が最初から織田家の家臣ではなく、「協力者」という立ち位置だったことから来ているのかもしれません。
上記の折檻状で挙げられた武将たちは、最初から信長の下の立場になっていたので、勘気を蒙ったらどうなるか……という視点はあったでしょう。
しかし、元は同等の立場だった信盛には、時勢と自分の立ち位置が変化していることがわからなかったのだと思われます。
空気を読む力って、戦国時代でも大切だったんですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸純夫・片桐昭彦 (編集)『戦国武将合戦事典』(→amazon)
佐久間信盛/wikipedia