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【小豆袋は史実なのか?】
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そもそも「小豆袋」は江戸時代後期の創作
小豆袋の逸話は、大変よくできた話です。
機転を利かせて兄に危機を知らせる妹。
それを目にして考え込む信長。
あまりに劇的な展開のため、フィクションでは欠かせぬ逸話として様々な場面で扱われ、だからこそ知っている方も多いのでしょう。
では
「史実なのか?」
と考えると、決定的におかしいところがあります。
まず浅井領にいるお市から、越前へ出陣している織田信長のもとへ、そう簡単に物資など送り届けられるものか?という点。
平時ならまだしも、戦時にあっては国境も閉鎖され、とても現実的とは思えません。
そこで問題となってくるのが、この逸話の出典元です。
『朝倉家記』(別名・朝倉義景記→link)という、江戸期に成立した軍記に記されているのです。
戦国時代と違って江戸時代は平和になり、物流も整備されました。だからこそ小豆袋のようなエピソードが作られる素地がある。
何より、お市の行動そのものに、江戸時代後期以降の道徳観が反映されています。
要は、江戸時代の著者ならではの考え方が反映されていて、それは以下のような特徴から見てとれます。
・妻は夫に従うものだが、長政のことを兄に伝えたい
・長幼の序があるからには、兄を守らなくてはならない
・織田家が滅びたら、あまりに先祖に不孝だ
後世の人からすれば「そりゃ、日本人ならそうだろ」となる発想でしょう。
しかし、こうした道徳規範が日本の民衆に浸透するまでは長い歳月を要しており、早い話、戦国時代の発想ではありません。
そもそも日本人には長いこと「仁義」という概念はなく、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、そんな道徳レスな日本人像が生き生きと描かれました。
夫・頼朝の不貞に激怒し、愛人宅を襲撃する妻・政子。
兄・頼朝をさしおいてホイホイと出世してしまう弟・義経。
十三人の合議制メンバーを選ぶときだって、口の悪い三浦義村は、年長者の千葉常胤についてこう論評していました。
「もうすぐ死にます。じいさんはやめておきましょう」
儒教由来の敬老精神がある中国や韓国の時代劇では、下劣な悪党しか口にしないようなセリフです。
このように『鎌倉殿の13人』は、謀略や惨殺が連発し、現代人とは大きく感覚が異なっていた。
儒教精神が欠落しまくっていて、殺伐とした価値観に陥っていた。
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だからでしょう。後世の家康は考えました。
儒教とは世に泰平をもたらす――。
そして江戸の社会へ導入されていくと、時代が進むにつれて浸透し始め、さらには徳川吉宗の時代となると、民衆統治においても役立つと考えられました。
徳川綱吉のように自ら学んで究める将軍ではなく、統治手段として用いたのです。
享保4年(1719年)に吉宗は儒教の徳目である「六諭」の解説書『六諭衍義(りくゆえんぎ)』を入手。
ブレーンである室鳩巣が和訳して『六諭衍義大意』とすると、さらに荻生徂徠が訓訳(書き下し)して、江戸町奉行の大岡忠相が、江戸の著名な手習師匠たちに与えました。
そして寺子屋でも『六諭衍義大意』がテキストとして定着したのです。
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こうした儒教規範の成立があったからこそ、お市の小豆袋を読んで「わかるわ~!」と感動する読者が多く、結果、日本中へ広がっていった。
小豆袋の逸話は、やはり江戸時代後期以降の創作で間違いないのでしょう。
むろん戦国時代にあった実際の話が後世に伝わった可能性もゼロではないのないのでしょう。
しかし、それが証明されているとは言い切れません。それなのに公式が確たる証拠抜きに「史実である」と断定してよいのでしょうか。
そもそも、お市と長政は、夫婦仲が良好とされています。
それなのに『どうする家康』では、ずっと家康を思い続けた設定とされました。
夫でもなく、兄でもなく、初恋の相手のために行動するお市とは一体なんなのか。
ドラマの制作陣が小豆袋を「史実です」と喧伝した上で、彼女の心情をそのように描くのは、たとえフィクションだとしても、さすがに乱暴ではありませんか。
例えば10年前の『八重の桜』。八重の夫である川崎尚之助の像がそれまでのフィクションから大幅に修正され、それが夫婦の関係にも反映されていました。
あれはドラマ制作にギリギリ間に合うタイミングで、新史料が発見されたものを反映した結果なのです。
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阿月の過去話も無茶苦茶で……
とても史実とは思えない小豆袋のエピソード。
本作では、そこから擬人化され、阿月という侍女がクローズアップされました。
細かいことを言いますと、彼女は名前からして妙です。
侍女には、本名とは異なる呼び名が与えられます。
『鎌倉殿の13人』の場合、北条義時の妹・実衣が出てきました。この「実衣」という名は劇中の創作であり、女房としての呼び名である「阿波局」が確かな名前です。
阿月も、大名夫人であるお市付きとなったならば、名前を変えてもおかしくはないでしょう。
彼女は父から逃げ出し、お市に拾われています。
ならばいっそ、親のつけた名前を捨て、代わりにお市の好物由来として「阿月」とした方がよかったのではないでしょうか。
幼い頃の彼女は、父に「女らしく」と躾けられました。
しかしそれは300文で身売りするためだった――というのも適切かどうか。
戦国時代に来日した宣教師が嫌悪感を持って記した日本人の悪習として「間引き」があげられます。
わざわざ躾けて売るよりも、生まれたら喉に足を乗せて殺してしまう。
そんな「フェミサイド」(女性虐殺)と呼ばれる行為のほうが、当時の女性差別を端的に示していませんかね。
戦国時代に身を売る女性は、『麒麟がくる』でも描かれています。
伊呂波太夫です。
彼女の場合、踊りを率いる女芸人となり、各地を旅する機動力が重視されました。
当時は江戸時代の吉原に代表されるような、大規模な遊郭は成立しにくく、移動して歌と踊りを披露しながら色を売る方が盛んだったのです。
伊呂波太夫の一座にいたことのある駒は、綱渡りを披露する場面もあります。
どうせ娘を仕込むのであれば、そういった体を使う隠し芸の方が高値がついたことでしょう。ドラマのあれは一体なんだったんだ?という話。
『麒麟がくる』では、女性たちが立ち膝で座ることも物議をかもしました。
しかし、畳が普及しきっておらず、板に座ると痛い当時は、別にそこまでおかしくもありません。
日本のみならず「女性らしい仕草」といった過剰なジェンダー規範は、近世以降の成立とされます。
西洋のコルセット、ハイヒール。
中国の纒足。指甲套(しこうとう・清朝高位女性のつけ爪)。
日本でも、高下駄を履き、動きにくい豪華な着物に、かんざしを何本も刺した花魁の姿がおなじみですね。
こうした女性は労働することもなく、逃げ惑うこともない。裕福で、ただ寝そべって色気を振りまいていればよいだけという、ステータスシンボルとして存在します。
阿月のジェンダー規範は、こうした近世以降のものと思えます。
足を開かずおしとやかに歩くという躾は、江戸時代以降の遊女や、あるいはもっと後の年代でしょう。
男性が公共交通機関で開脚することは「マンスプレッディング」という言葉で呼ばれます。この新語は2013年に登場しました。
要するに、阿月を縛るジェンダー規範は、近世以降から現代まで入り混じったもので、要は無茶苦茶なのです。
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