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【織田信勝(織田信行)】
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我こそは織田家の正当なる当主である!
織田信勝は、この辺からイメージ戦略を始めました。
主君筋だった織田大和守家でよく使われていた「達」の字を使って「達成」と名乗りを改めたり、父と同じ「弾正忠」の官職を自称したり。
「我こそは織田家の正当なる当主であるぞ!!」
と、いわんばかりのアピールを始めたのです。
一方、信長は那古野城に身を寄せていた尾張守護の息子・斯波義銀を擁立しています。
詳細については以下の『信長公記』15話をご覧いただくとして、
尾張守護・斯波義統の暗殺~戦国初心者にも超わかる信長公記15話
続きを見る
端的に述べますと、守護を囲い込んだワケですね。
この辺の力関係については、守護というより強固な神輿を担いだ信長のほうが有利といえるでしょう。
あくまで名目上ではありますが、序列としてはこうなります。
◆尾張守護(斯波氏)
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◆織田大和守家(半守護代)
|
◆織田弾正忠家(信長と信勝の家)
弟の死を巡って考え方の異なる兄弟
二人の目の付け所の違いは、別の事件にも表れます。
弘治元年(1555年)6月、信長と信勝の弟である織田秀孝が、叔父・織田信次の家臣に誤殺されるという不幸な事故がありました。
織田信勝はこれを聞いて激高し、直ちに信次の居城・守山城の城下を焼き払わせています。
事の次第を聞いた信長が、
「俺の弟ともあろう者が、身分をわきまえずに一人で出歩いていたのだから、事故が起きても仕方ない」
と冷静に判断したのとは正反対の対応ですよね。
為政者としての視点は、この時点で信長のほうが上だといえます。
信次がしばらく行方をくらませたときは、守山城に、これまた信長と信勝の兄弟・織田信時(秀俊)が入りました。
しかし、信時は男色相手を寵愛しすぎて、年寄衆・角田新五にブチ切れられ、弘治二年(1556年)6月頃に切腹へ追いやられるという始末。
新五はこの後、【稲生の戦い】で信勝方についていることから、現代では「この件に信勝が関与したのではないか?」ともいわれています。
同じ兄弟なのに、秀孝と信時とでものすごい扱いの差をしていますが、これはおそらく母親が同じかどうかの違いから来ているのでしょう。
信長公記で、信時は「信長公の腹違いの兄・信広殿の弟」と書かれています。
となると、信勝にとっても信時は腹違いの兄弟になるわけです。
一方、秀孝の母親はハッキリわかっておりません。
信長・信勝と同じ土田御前だという説があります。同腹の兄弟であれば、良くも悪くも情が厚くなりやすいものですよね。
義龍の不穏な動きに合わせて裏切りを画策
少々時系列が前後しますが、弘治二年にはまた別の大事件がありました。
信長にとって舅であり最大の協力者でもあった斎藤道三が4月、長良川の戦いで討ち死にしてしまったのです。
道三を討ち取った斎藤義龍は、尾張上四郡の半守護代・岩倉織田氏などに接近し、信長を追い詰めようと動き始めます。
敵の敵は味方といわんばかりに、織田信勝も同年8月に信長への反旗を翻しました。
これが【稲生の戦い】です。
稲生の戦いで信長一騎打ち!~戦国初心者にも超わかる信長公記19話
続きを見る
柴田勝家や林美作など、信勝方の重臣も参加しておりましたが、結果は信長方。
勝家は敗走、美作は討ち死に、という、完全な敗北でした。
その後、末森城に攻め寄せた信長に対し、信勝は籠城戦に持ち込もうとしますが……。
ここで二人の母・土田御前の仲介で、信勝が詫びを入れ、柴田勝家や林秀貞とともに赦免されました。しかし……。
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