吉弘鑑理

最強武将として知られる孫の立花宗茂(右)と同じく武勇を誇る孫の吉弘統幸/wikipediaより引用

大友家

戦国最強武将の祖父・吉弘鑑理が大友家を躍進させる!そして豊後三老と称えられ

九州の戦国武将と言えば、どの一族を思い浮かべますか?

やはり最初に挙がるのは島津家でしょう。

義久・義弘・歳久・家久の四兄弟はインパクトがあるし、何と言っても鎌倉時代島津忠久から続く超名門――九州で彼らに勝てる一族など他にいま……した。

大友家です。

さすがに島津に勝てるとまでは申しませんが、大友家のルーツとなる初代・大友能直(おおともよしなお)は鎌倉時代の武将。

三代目の大友頼泰以降、豊後(大分県)を中心に勢力を拡大させ、戦国時代には大友宗麟が九州エリアの半分を制するにまで躍進するのです。

九州は島津家だけじゃない!

むしろ大友家の方が面白いかもしれない!

実はキャラクター揃いの大友軍団。

今回はその中から、大友宗麟を支えた吉弘鑑理(よしひろあきただ)に注目します。

詳細は後述しますが、この鑑理、豊臣秀吉から“戦国最強“と称えられたアノ立花宗茂の祖父なのです。

※以下は立花宗茂の関連記事です

立花宗茂
西の戦国最強武将・立花宗茂~関ヶ原で浪人となるも諸大名の嘆願で復活した生涯76年

続きを見る

 


大友氏一族・田原氏の分家に生まれた吉弘鑑理

吉弘鑑理の生まれた吉弘家は、血筋がいささか複雑です。

大友氏の一族に属し、かつ田原氏一族の分家筋というもの。

父は吉弘氏直で、彼が活躍した時代には既に忠臣として大友家の歴代当主に重用されていました。

しかしながら鑑理の生年は不明。

青少年期についても詳しいエピソードが現存しておらずハッキリしたことはわかりません。

天文3年(1534年)に大友氏と大内氏の間で発生した【勢場ヶ原(せいばがはら)の戦い】によって氏直が戦死してしまったため、恐らくこのころ家督を継承したものと思われます。

ただし、彼が大友家で存在感を増してくるのは弘治年間(1555年~)に入ってからですので、1534年に家督を継承したときは幼子だった可能性もあります。

その場合は、成人するまでは誰かしらの後見があったかもしれません。

なお「弘治年間からの存在感」というのは、大友家の重大事件に影響を受けています。

天文19年(1550年)に当時の主君・大友義鑑(よしあき)が【大友二階崩れの変】によって殺害され、その息子である大友宗麟(大友義鎮)が家督を継ぐという出来事があったのです。

鑑理の活躍が始まったのは、宗麟の家督継承や台頭と時期が重なっており、後に九州の半分を支配する大友家の栄光を支えていたことがわかります。

大友宗麟(大友義鎮)
戦国九州の王者か非道の暗君か?大友宗麟(義鎮)58年の生涯まとめ

続きを見る

 


古処山城の戦い

大友宗麟のもと、軍事や政治など多方面で活躍した鑑理。

歴史の舞台に登場した頃から猛将かつ智将としてその名を轟かせていました。

その一例が【古処山城(こしょさんじょう)の戦い】です。

古処山城とは筑前国(現在の福岡県)にある難攻不落の山城。

秋月氏の拠点であり、当時は秋月文種(あきづきふみたね)が九州エリアの大友氏と中国エリアの大内氏に割って入るようにして独自の立場を築いていました。

やがて大内氏が滅亡すると、文種は「秋月本家の再興!」をスローガンに掲げ、弘治3年(1557年)、毛利氏らと結託して大友に反抗する姿勢を見せます。

古処山城は標高約1,000メートルに位置する堅城ですから、守りには相当な自信があったでしょう。

文種は大友に対して挙兵すると、周辺の国衆に支援を呼びかけ勢力拡大を狙いました。

この古処山城の攻略を命じられたのが吉弘鑑理でした。

『正攻法で落とすのは難しい……』

難攻不落の堅城を前にした鑑理は、調略による切り崩しを目論見ます。

結果、作戦は見事に成功し、秋月氏の家臣である小野四郎左衛門尉という人物が文種を殺害。

息子である秋月種実(たねざね)は取り逃がしてしまったものの、鑑理の働きにより大友氏はこの地の支配権を手にします。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-大友家

×