絵・中川英明

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赤井直正(悪右衛門尉)50年の生涯をスッキリ解説!光秀を最も苦しめた男

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鬼柴田や鬼美濃。
あるいは甲斐の虎や表裏比興の者など。

個性あふれる戦国武将には数多のあだ名がありますが、自分のことを
悪右衛門尉あくえもんのじょう
と言い切ったツワモノがいたことをご存知でしょうか?

丹波の猛将・赤井直正(荻野直正)――。

この男こそ、織田家にあって出世街道を爆進していた明智光秀を苦しめ、一時は地元の丹波から明智軍を追い出した剛の者であります。

時には【丹波の赤鬼】と呼ばれることもあった赤井直正。
いったいどんな武将だったのか?

 

赤井直正 自ら悪右衛門尉と称する

赤井直正は享禄2年(1529年)、丹波地方(現在の京都府付近)の豪族・赤井氏の一族に生まれました。

当時の丹波は守護細川氏が頂点に君臨していたものの、それはあくまで名目上の話。
応仁の乱以降、細川の勢力は陰りを見せており、ここで最初に台頭してきたのが、守護代の内藤氏一族です。

彼らは細川氏から実権を奪い取り、さらにこの内藤氏を破ったのが今回登場する赤井直正の赤井氏でした。

赤井氏は、同じく下克上でのし上がった波多野氏一族と共に、丹波の実力者として知られるようになります。

直正は、当時実権を握っていた赤井時家の息子として生誕。
次男だったため、赤井氏と同族関係にあり、黒井城を本拠とした荻野氏という一族の養子に出されます。

このため近年の研究では、彼を「赤井」ではなく「荻野おぎの」とすることも増えています。

荻野氏に仕えていた頃の詳細は不明ですが、一説では外祖父の荻野秋清という人物が謀反を企てたところ、養子であった直正が彼を裏切って討ち滅ぼしてしまったと言います。

結果として黒井城を奪い取り、この城を中心に赤井氏は勢力を伸ばしていくこととなりました。

黒井城(隅の石垣)/photo by ブレイズマン wikipediaより引用

なお、上記の事件が発生してから直正は、前述の【悪右衛門尉】を自称したと言われています。

もともと朝廷には、右衛門尉うえもんのじょうという官職令外の官)があり、それに対抗して
「オレは悪い奴なんだぜ!」
と開き直ったとされます。

ゲームや漫画であまり注目されることのない人物ですが、とてもナイスなキャラだけに、今後、大河『麒麟がくる』をキッカケに羽ばたく可能性を秘めていると感じます。

話を直正の事績に戻しまして……。

 

甲陽軍鑑でも筆頭扱いされる名将っぷり

自身が奪い取った黒井城を本拠に、実質的な荻野氏の当主として振舞うようになった赤井直正。

彼は特に軍事・統率のセンスがズバ抜けていたようで、『甲陽軍鑑』という史料にも【名高キ大将】として、長宗我部元親松永久秀徳川家康らとともに名を連ねています。

しかも、そんな名将の中にあって直正は「筆頭」に位置づけられているのです。

『甲陽軍鑑』は、もともと武田信玄の甲斐国(山梨県)に伝わる史料であり、最近はその価値が見直されつつありますが、丹波から遠く離れた関東甲信越にもその名が轟いていたことを窺わせます。

悪右衛門尉という悪びれた通り名もダテではなかったんですね。

※丹波は現在の京都・兵庫にあり、甲斐は山梨となります

 

8才の甥・忠家を補佐して一族をまとめる

直正の実家である赤井家は、丹波で勢力を伸ばしつつありました。

が、弘治3年(1557年)、一族をまとめていた兄の赤井家清が戦で傷を負い、それがもとで亡くなってしまいます。

そこで跡を継いだのが家清の息子忠家。
彼はまだ8歳であったために、実質的な国政の指揮者が直正となりました。

ここから赤井氏は、直正を中心にさらなる勢力の拡大を成功させていくのです。

まず、永禄元年(1556年)、荒木氏および塩見氏といった一族を立て続けに滅ぼし、永禄8年(1564年)にはこれまで抗争を続けていた内藤氏を撃破。
丹波国における実力者としての地位を確立します。

その勢いは周辺諸国にも伝わっていき、やがて直正は姓をもじって
【丹波の赤鬼】
と称されるようにもなっていきました。

彼の「強さ」と「ワルさ」を象徴するような異名であり、まさに“言い得て妙”といった感じでしょうか。

ちなみに、赤井氏がこれだけ力をもてた理由として、直正の統率力が優れていただけでなく
【生野銀山の採掘権】
を掌握していたためとも指摘されています。

生野銀山の坑道内/photo by 663highland wikipediaより引用

戦国時代、銅山経営による経済力の確保は、そのまま国力に直結するほど重要だったので、赤井氏の勢力にも合点がいきますね。

 

義昭を奉じて信長上洛

かくして丹波における実権を確立していった直正に、とある一報が入ります。

尾張の織田信長足利義昭を奉じて上洛――。

1560年に【桶狭間の戦い】で時代の風雲児となった織田信長は、その後、【稲葉山城の戦い(1567年)】で美濃の国を制覇し、1568年に明智光秀や細川藤孝細川幽斎)などの尽力もあって、京都へやってきたのです。

領地の隣接する赤井氏としては、
・軍門に下るか
・敵対するか
という分かりやすい選択を迫られました。

赤井氏および波多野氏(波多野秀治)は、信長に忠誠を誓いました。

以降、彼らは信長家臣団の一員として位置づけられるようになり、永禄13年(1570年)には、当主・赤井忠家に対して領土の安堵状が発給されています。

※直正は、あくまで甥・忠家の補佐でした

 

キッカケは信玄 織田包囲網に参戦する

しかし、義昭と信長の対立が表面化してくると、元亀4年(1573年)頃から直正をはじめとした丹波衆の間に「反信長」の機運が高まったいきます。

「直正の裏切り」といえばそうなのですが、そもそも彼らは「人間・織田信長」に忠誠を誓ったとういより、あくまで「足利義昭の支持者である織田信長」に従ったに過ぎません。

彼らから見れば「将軍と対立した信長には従う理由がない」わけでもあり、義昭支持を表明した直正については、軍勢を率いて京都に出陣するという噂さえ流れました。

結局、実現はしておりませんが、信長と対立して立場を悪くしていた足利義昭から「幕府再興に協力を」と助力を求められます。

では、スッパリと織田と縁を切ったのか?

と問われれば、そこは戦国時代の駆け引きの難しさがあり、天正元年(1573年)頃には羽柴秀吉豊臣秀吉)から寺社領をめぐる書状が送付されていて、非常に微妙な力関係が見てとれます。

将軍の権威か。
信長の勢いか。

悪右衛門尉であり、丹波の赤鬼でもある直正としても、簡単には決断できなかったのでしょう。

絵・中川英明

そんな折、判断を下すキッカケになったのが武田信玄でした。
「信長包囲網」を結成する武田氏との意思疎通を得ると、その翌年には反信長の態度を明確します。

当然、信長との対立は決定的なものとなりましたが、元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦い徳川家康相手に大勝した武田軍は、その後、不可解な撤退をしており、信長包囲網がにわかに崩れ始めるのです(信玄は1573年に亡くなった)。

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かくして兵力に余裕ができた織田軍。
【丹波平定】という任を受け、現地へ派遣されてきたのが明智光秀でした。
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