九鬼嘉隆

九鬼嘉隆/wikipediaより引用

戦国諸家

九鬼水軍を率いた九鬼嘉隆が信長や秀吉に重宝され 最期は自害した哀しき理由

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九鬼嘉隆
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文禄・慶長の役

海を超えて明へ攻め込むとなれば、当然、水軍は必須。

緒戦において勝利をおさめました。

朝鮮の名将である李舜臣(イ・スンシン)や明の鄧子龍といった将をも敗死させるほどです。

文禄の役『釜山鎮殉節図』/wikipediaより引用

しかし、長引く戦線においては苦戦が目立つようになります。

このあとの短い講和を経て、再度戦端が開かれた【慶長の役】に、九鬼嘉隆が出陣することはありません。

慶長2年(1597年)、嘉隆は家督を嫡子・九鬼守隆に譲り、隠居するのです。

そして、その翌慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、無益な【慶長の役】もようやく収束を迎えました。

文禄・慶長の役については以下の記事に詳しくありますので、よろしければ併せてご覧ください。

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嘉隆と守隆 親子で東西に分かれ

秀吉の死後、【五大老】の一人である徳川家康は着々と足場を固めてゆきました。

そして慶長5年(1600年)、上洛に応じない上杉景勝を討つべく、家康は【上杉討伐】のため会津へ。

徳川家康/wikipediaより引用

蒲生氏郷の死後、奥羽に睨みを効かせていた上杉景勝。

九鬼嘉隆の息子である九鬼守隆は、その景勝討伐のため会津へ向けて出陣し、そのまま家康側の【東軍】に属しました。

しかし家康の背を突くように、毛利輝元石田三成らが挙兵すると、父の嘉隆は毛利・石田側の【西軍】につきます。

嘉隆は水軍を率いて鳥羽城を攻略。

伊勢湾の海上封鎖も行い【西軍】に貢献しました。

国許へ戻った守隆は驚きます。

そして【関ヶ原の戦い】本戦では、東軍が勝利をおさめることに……。

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九鬼一族が滅びることはないものの「父の命が危うい」と守隆は焦りました。

守隆は、父の命を救うよう、家康にかけあい「嘉隆の命までは奪わぬ」約束を取り付けます。

その急使が嘉隆の元へ急いでいるそのとき――嘉隆は既に自害していました。

享年59。

なぜ嘉隆は、それほど自害を急いだのか?

というと、家臣の豊田五郎右衛門に九鬼家の行く末を案じるよう迫られ、それを受け入れての死であったとされます。

今度は、守隆の元へ、急使が衝撃的な情報を届けてきました。

父・嘉隆の首級が、伏見城の家康の元へ送られていることを確認したのです。

最悪の知らせを聞き、守隆は激怒。

父に自害を迫った豊田五郎右衛門を鋸引きで斬首としたのでした。

その後、守隆は、鳥羽藩5万6千石の主人として活躍します。

【大坂の陣】では、大坂湾に大坂側についた【水軍】の船もいたといいます。

江戸城築城の際には、海運で水軍力が重宝されました。

かくして九鬼氏は大名として存続し、持ち前の水軍力を特徴としたのです。

 

水軍を失った九鬼一族は?

しかし戦乱期が終わったからといって万事安泰と言えないのがこの時代。

九鬼守隆の子の代で御家騒動が勃発してしまいます。

守隆の悩みの種は、長男である九鬼良隆が虚弱であることでした。

そこで、出家させていた五男の九鬼久隆を後継にしようとしたところ、三男の九鬼隆季が反対。

幕府の裁定に委ねられることとなりました。

結果、守隆の子である九鬼久隆は摂津国三田藩、九鬼隆季は丹波国綾部藩へ。

どちらも内陸部であり、九鬼家はその大きな力である水軍を失ってしまうのです。

ただし、水軍なき小大名としての九鬼家は明治まで続き、華族に列することになりましたので結果オーライというところでしょうか……。

九鬼から水軍力が奪われたのは、江戸幕府の方針も影響していました。

幕府は大型船舶の建造を禁じ、全国各地の諸大名が水軍力を持つことを抑止したのです。

大型船舶は、将軍や大名が乗る移動手段に限定。

実に幕末まで、水軍力を抑止された政策は効力を発揮し続けました。

『将軍乗船図』に描かれた天地丸/wikipediaより引用

そのせいでしょうか。幕末の争乱において、幕府軍が陸上戦で敗れた後も、幕府の海軍は並ぶものがないほどの強さを発揮し【箱館戦争】まで持ち堪えます。

蝦夷地に独立国を作るのではないか?と見なす西洋列強国もいたほど手がつけられない強さだったのです。

結局、明治政府がアメリカからストーンウォール級(甲鉄艦)を入手するまで、この膠着は続きました。

こうして歴史を振り返って見ると、九鬼一族の栄枯盛衰には戦国末から江戸初期にかけての【水軍】の歴史が凝縮されています。

特定の勢力に属さぬ【海賊】が大名のもとで束ねられ水軍とされる。

その水軍ありきの豊臣秀吉による【文禄・慶長の役】。

豊臣政権が終わり、徳川幕府の時代となると、水軍の存在は終わりを迎えたのでした。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
小川雄『水軍と海賊の戦国史』(→amazon
渡邊大門『真実の戦国時代』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon

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