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【小笠原貞慶】
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信濃の旧領回復……ならず
小笠原貞慶は天正八年頃、越中へ赴き、上杉方の国衆たちの一部を織田家に組み入れ、柴田勝家から慰労されたこともあります。

柴田勝家/wikipediaより引用
当時の織田家は以下のような状況です。
天正三年(1575年)織田信忠に家督を譲る
天正四年(1576年)第一時木津川口の戦い
天正五年(1577年)2月:紀州攻め 8月:松永久秀が謀反
天正六年(1578年)別所長治が謀反
天正七年(1579年)安土城へ引っ越し
天正八年(1580年)3月:関東の北条家が織田家に従うと連絡 8月:本願寺と和睦
まだ畿内近郊や西日本への攻略真っ最中というところで、東国に大軍勢を送れる状況ではないことがイメージできますね。
そこに信濃守護家という血筋と大義名分を持った貞慶が来たのですから、信長が小笠原貞慶に利用価値を見出すのも自然なことでしょう。
貞慶としては大した血筋でもない織田家の下風に立つのは悔しかったかもしれません。
しかも天正十年(1582年)に甲州征伐で武田が滅びた後も、貞慶は信濃の旧領回復を認められませんでした。
甲斐の大部分は河尻秀隆に、信濃は森長可らに分けて与えられています。

森長可/wikipediaより引用
信長がどんな構想を抱いていたか不明ですが、上杉家については武力で滅ぼすか領地を大幅に削るつもりだったと思われるので、いずれそこに秀隆らを移し、貞慶を信濃に入れる算段はあったのかもしれません。
仮に軍事力の心許ない貞慶がすぐに信濃へ入ったとしても、かつて敵対していた武田の旧臣残党を抑えるのは難しいという状況もあったでしょう。
ただし、これだけ利用した貞慶に全く何も与えず放置すれば、恨みを買って他家で謀反を起こされるおそれもあります。
小笠原貞慶は表向き雌伏を続けつつ、機会を見計らっていました。
石川数正の出奔が貞慶にも波紋
武田征伐から2ヶ月ほど後、天正十年(1582年)6月に本能寺の変が勃発。
織田信長の死亡が伝えられると、小笠原貞慶は即座に動きました。
当時、貞慶は家康のもとにいたようで、その要請もあって信濃に入り、旧臣たちを集めて深志の地を奪回したのです。
その後、深志を松本と改め、旧臣たちや領内の寺社へ所領を安堵して地盤を固めつつ、そうでない勢力については武力を行使というやり方で勢力を回復していきました。
徳川傘下としての動きだったようで、家康に功を賞されたこともありますし、人質として嫡子・小笠原秀政を預けてもいます。
これはこれで不満の残る扱いでありながら、先祖代々の土地に戻れるならば致し方ないですね。
しかし、今度は、秀吉と家康の対立に影響されることになってしまいます。
きっかけは天正十三年(1585年)11月、徳川家の重臣・石川数正が秀吉のもとへ出奔したことでした。

石川数正/wikipediaより引用
貞慶の子・小笠原秀政が石川数正と行動を共にしていたため、貞慶も同道せざるを得なくなってしまいました。
同年直前の10月に、秀吉から真田昌幸へ「貞慶と相談せよ」という命令があったため、貞慶・秀吉・数正・昌幸の間で予め打ち合わせがあったのかもしれません。
この時点で貞慶は40歳。
「家康の傘下には留まりたくない、関白から認めてもらって信濃守護に返り咲きたい」
当時の平均寿命を考えれば悠長に構えてもいられませんので、秀吉につくのも宜なるかなという場面です。
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