斎藤義龍

斎藤義龍/wikipediaより引用

斎藤家

父のマムシ(道三)を殺した斎藤義龍~信長の美濃攻略を阻止した33年の生涯とは

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
斎藤義龍
をクリックお願いします。

 


まずは兄弟を殺して挙兵 戦いは一方的に

義龍を疎んじるようになった道三。

いよいよ別の息子・孫四郎を正式な跡取りにし、さらに喜平次に「一色右兵衛大輔」と名乗らせ、義龍との扱いの差を明らかにします。

一色氏は室町幕府の要職「四職」の家柄で、要するにお偉いさんの一族です。そう名乗ることによって、箔をつけられるわけですね。

喜平次の母も不確定ですが、深芳野だという説もあります。

さらに深芳野は一色氏の出ともされるため、この場合は母方の名字を使わせたことになりますね。

こうなると、義龍の立場は宙ぶらりんになってしまいます。

一回は家督を譲られたと同然のポジションだったのに、明らかに格差をつけられたわけですから、怒りも湧いたでしょう。

そして弘治元年(1555年)。

仮病を装って孫四郎と喜平次をおびき出して謀殺して挙兵し、翌弘治二年(1556年)の4月20日、【長良川の戦い】で父の道三を討ち果たすわけです。

長良川の戦い
長良川の戦いで道三と義龍が激突! 親子で分裂した斎藤家はその後どうなった?

続きを見る

戦いは一方的なものでした。

なにせ美濃の地元勢は義龍をプッシュしていたのだから当然でしょう。

実は義理堅い織田信長もわざわざ救援に向かって来て、結局、何もできず、そのまま帰路へとついています。

このとき信長自らが殿(しんがり)を買って、無事に全軍を尾張へ戻したという話があります。

信長が殿(しんがり)を担った長良川! 道三敗死からの撤退戦~信長公記24話

続きを見る

上記、本サイトの連載『信長公記』に掲載されておりますので、よろしければご覧ください(次ページ末にもリンクございます)。

 


信長の暗殺計画も実行していた

道三は義龍をバカ扱いしていたとされます。

が、その後の領国経営や外交については、ときに義龍のほうが優れているフシもあります。

例えば、こんな感じですね。

織田信勝’(信行)や織田信広と通じ、尾張を揺さぶる

・婚姻を通じた浅井氏から六角氏への外交切り替え

・一色氏(清和源氏)を名乗るにあたり、日蓮宗から禅宗への改宗

・朝廷へ接近し、治部大輔(のちに左京大夫)の官職をもらう

・幕府にも接近し、相伴衆の一員となる

などなど。内政、外交、謀略と精力的に動いておりました。

変わったところではこんな話があります。

それは永禄二年(1559年)のこと。

織田信長がお忍びで上洛した際、火縄銃を用いた刺客を送り、信長を暗殺しようとしたのです。

京都上洛の信長に向け義龍が放った刺客! どう対処した? 信長公記31話

続きを見る

このときは信長と機転の利く家臣によって見破られて失敗しましたが、記録上「日本初の狙撃」とされています。

なかなか大胆な試みですよね。もしも義龍が凡将だったら、このような試みは実施されてなかったでしょう。

斎藤義龍/wikipediaより引用

 


33才の若さで急死してしまった

翌1560年は【桶狭間の戦い】があった年でもあり、この頃の信長が如何に危険な毎日だったか、ということも感じさせてくれます。

桶狭間の戦い
桶狭間の戦い 信長の勝利は必然だったのか『信長公記』にはどう書かれている?

続きを見る

しかし、そんな義龍の脅威も続きません。

1561年に本人が33才の若さで急死してしまうのです。

マムシという強敵を倒し、信長にプレッシャーを与え続け、美濃一国を切り盛りしていた人物としては、あまりに呆気ない最期でした。

そのせいか斎藤義龍については、いささか過小評価された見方が広がっている気がしてなりません。

2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』では伊藤英明さんが演じ、注目度も大いに上がりましたので、今後の新史料発見や、研究の進展が楽しみな人物といえそうです。


あわせて読みたい関連記事

深芳野
夫と息子が殺し合い~道三の側室・深芳野は美濃に災いをもたらす美女だった

続きを見る

土岐頼芸
マムシの道三に国を追われ 信玄に拾われた土岐頼芸~美濃の戦国大名83年の生涯

続きを見る

濃姫(帰蝶)
信長の妻で道三の娘である帰蝶(濃姫)史実ではどんな女性だった?

続きを見る

コメントはFacebookへ

織田信長
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る

続きを見る

織田信広
信長の兄・織田信広は家督を継げずに謀反を画策?それでも信長に重用された理由

続きを見る

長良川の戦い
長良川の戦いで道三と義龍が激突! 親子で分裂した斎藤家はその後どうなった?

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
『国史大辞典』
横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29)』(→amazon

TOPページへ


 



-斎藤家
-

×