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【斎藤義龍】
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なぜ親子は対立したのか?
キナ臭い、とは他でもありません。
道三が義龍のことを「あいつはダメだ。弟たちのほうがまだマシ」と冷遇するようになった……というのです。
後に義龍が父の道三を死に追いやる――そう考えると十分に納得できる話ですが、道三と義龍が対立するようになった決定的な証拠もありません。
わかる範疇で、当時の状況を振り返ってみましょう。
義龍には数人の弟がおり、ほとんどが生年不明でした。
末弟の利治が1541年生まれという説があるので、その間の弟は、義龍本人が生まれた翌1528年~1541年の間の生まれになりますね。
また、道三の次男・孫四郎と、三男・喜平次の母親は、道三の正室・小見の方という説があります。
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彼女が道三に嫁いだのが天文元年(1532年)ですので、小見の方が母親ならば、孫四郎は早くて1533年生まれ、喜平次はその後になります。
要は、1527年かつ側室生まれの義龍は【年長だ】という武器しかなかったのです。
どこの家でも、大義名分や血筋は非常に重要。側室生まれの息子よりも、正室生まれの息子に跡を継がせたがります。
当時の価値観を考えれば致し方ないことであり、義龍としても歯がゆかったでしょう。
実際、織田信長も長男ではありません。
異母兄の織田信広がおりました。
が、織田家の家督は正室生まれの信長に譲られました。
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つまり、義龍以外の跡取りが誕生しても何ら不思議はなかったのです。
美濃の武士から見て義龍のほうが魅力的
今日知られるようになってきたのですが、道三は一代で大名にのし上がったワケではありません。
父・長井新左衛門尉との二代がかりで、美濃を国盗りした人という見方が有力になってます。
その辺の経緯は以下の記事で触れていますので、気になる方はご覧ください。
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美濃の統一までに、道三が何をしたか?
長井氏を実質的に乗っ取ったり。
美濃守護だった土岐氏を追い出したり。
戦乱に荒れていた当時の中でも、かなりの悪業を実行しており、それだけに美濃の中には道三に対して恨みを抱く人もたくさんおりました。
知略に長けた道三と真正面から戦をするのは、下策も下策。
少しでも望みがあるのは、代替わりです。
実際、義龍が道三と本格的に対立した後、多くの美濃の武士が義龍に味方しました。
おそらく道三と義龍の二重政権状態になった時期から、
「マムシにいつまでも好き放題されるのはごめんだ! まだ若い義龍殿のほうが話がわかる」
と考えていた人が、義龍についたのでしょう。
そしてその数が道三の想像以上に多かったのでしょう。
こうした要因が重なって、義龍と道三は親子でありながら敵対することになったのではないでしょうか。
江戸時代の後期に作られた話ならば
ただし……。
そうなると、今度は別の疑問が生まれてきます。
なぜ義龍が「土岐氏の血を引いている(道三の子ではなく土岐頼芸の子である)」なんて話が江戸時代になって出てきたのか?
実は江戸時代の後期になると、大名の中で「隠居後に復帰した」という例がいくつか見られるようになります。
もちろんケースバイケースですが、江戸時代では隠居した大名の復帰や、実質二重政権になることが大した問題ではなかったのです。
そういう価値観の人が、義龍と道三の話を見た場合、どう思うか?
「ご隠居様が政治をしたって問題ないのに、どうしてこの斎藤親子は対立した?
きっと何か大層な理由があるのだろう。
例えば義龍が、実は道三じゃなくて頼芸の息子だったら?
父の敵討ちになるな!
おぉ、それだとスッキリする!!」
そんな風に想像を膨らませてしまうことも、ありえなくはなさそうです。
また、江戸時代には講談の類が非常に大きな娯楽でした。
中には歴史的事実にかなりの脚色をし、それが観客に大ウケしたために、創作物が事実のように思われているケースもままあります。
ちょうど現代人が、歴史小説や時代小説、あるいはドラマや映画、ゲームのストーリーをそのまま「これが本当にあった出来事なんだ」と信じ込んでしまうように。
「義龍が本当は頼芸の息子」という話は、そういうものだったのかもしれません。
さて、そろそろ本題に戻りましょう。
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