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【斎藤龍興】
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なぜ美濃国主時代にそれをやらなかった!
それだけに不思議に感じます。
『なぜこういった謀略を、美濃の国主だった頃に発揮できなかったのか?』
美濃を追われたときの龍興は19歳。
この頃は22歳になっていますから、家を追い出されて初めて世間に揉まれ、メンタル面を鍛えられたのでしょうか。
単なるアホでなかったのは間違い無いようで。
この頃キリスト教にも興味を持ったらしく、イエズス会の宣教師にかなり詳しく話を聞いたこともあったと言います。
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ただし、信者になったワケではありません。
「人間が神によって祝福された存在であるならば、なぜこの世にはこんなにも不条理なのか? なぜ善良に生きている者が、現世で報いを受けられないのか?」
そんな鋭い質問をしていたそうです。
イエズス会側の記録では、これらの質問に対して龍興が納得するような説明をした、ということになっています。
しかし、龍興がその後キリシタンになったという話もありませんので、得心がいったわけではなかったのでしょうね。
現代でも「欧米圏では、黙る=相手の意見を認めたも同然、あるいは自己主張がない」とされますし、龍興が議論をやめたことを、イエズス会側が「納得した」と受け取った可能性もありそうです。
龍興、刀禰坂の戦いで戦死
その後、三好三人衆が「病死・戦死・行方不明」という末路をたどると、龍興は畿内での拠点を失います。
行き場をなくし、次は浅井氏領を経て、最終的に朝倉氏のもとへ。
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斎藤道三の孫だったからなのか、反信長だったのが受け入れられたのか。
待遇は悪くなく、客将扱いだったともいわれています。
しかし天正元年(1573年)8月、その信長が朝倉氏攻めにかかった際、【刀禰坂の戦い】で戦死してしまいます。
享年26。
一説によると、美濃の重臣だった氏家直元の嫡男・氏家直昌が斬ったとも。
旧臣である稲葉一鉄の計らいで、最終的には美濃へ帰ることができた元・美濃守護の土岐頼芸(ときよりあき)と比べると、何とも対照的な最期ですね……。
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生存説「九右エ門」と名前を変え
ちなみに龍興には、生存説も残っています。
戦場から逃れ、越中国新川郡に身を寄せ、「九右エ門」と名前を変えて周囲を開拓しながら密かに暮らしていたのだそうです。
そして慶長十六年(1611年)に興国寺(富山市)で出家し、家督を息子に譲った後、寛永九年(1632年)に亡くなったのだとか。こちらの説だと、享年87という長寿になりますね。
ただ……国外に追いやられても信長に抵抗しつづけた人が、すっぱり諦めて世を捨てるのは考えにくい。
もしも生き残っていたなら、信長が本能寺の変で斃れたときに、すぐさま動いていそうです。
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いずれにせよ生存説があるということは、誰かが「この人にこんなところで死んでほしくない」と思っていたということ。
ダメ君主というイメージが強い龍興にも支持してくれる人はいたんですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29)』(→amazon)
斎藤龍興/wikipedia