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【稲葉一鉄(稲葉良通)】
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一鉄の孫たちが信長の前で能を披露
どの戦でも一定以上の功績を挙げたため、一鉄は、信長から新たに美濃清水城(揖斐郡)を与えられました。
また、これらの戦の間に、いくつかの逸話が伝わっています。ちょっと微笑ましいものをご紹介しましょう。
天正三年(1575年)7月、信長は京都での政務や公家たちとの交流のため、上洛していました。
その帰り道で、一鉄のもとに立ち寄ったことがあります。
一鉄は喜び、孫たちに能を演じさせて信長をもてなしました。
その中で信長は、一鉄の嫡孫・稲葉典通(当時9歳)を特に褒め、自分が佩いていた刀を与えたといいます。
典通の母=貞通の正室が丹羽長秀の娘ですので、信長も典通のことを我が孫のように思っていたのかもしれませんね。
ちなみに家臣同士に血縁を結ばせるのは織田家の結束を強めるためだと考えられ、例えば明智光秀の娘・明智玉子を、細川藤孝の息子・細川忠興に嫁がせたのも有名でしょう。
明智玉子は後に細川ガラシャと名乗り、戦国の悲劇を迎えております。
武田征伐には不参加 本能寺が勃発して……
一鉄は天正七年(1579年)に家督を嫡子・稲葉貞通に譲ると、その後は美濃清水城に移りました。
1515年生まれとすれば、この時点で60代半ばということになります。
当時としては充分長生きの部類ですし、隠居するにはいい頃合いだったでしょうね。
このため、天正十年(1582年)の武田征伐には参加していません。凱旋した信長を自領内で饗応したそうですから、健康には問題なかったようですが。
また、同じ頃に武田領へ逃げていた一鉄の旧主・土岐頼芸が発見されています。
頼芸は一鉄の働きかけにより美濃へ帰ることができ、余命の半年間を過ごしたといわれていますので、この饗応のときにも何か聞いたかもしれませんね。
直接会ったかどうかまではわかりませんが、機会があれば美濃時代の昔語りでもしたのでしょうか。
それから3ヶ月ほど経って、【本能寺の変】が起こります。
隠居の身とはいえ、一鉄も無関係ではいられません。
美濃の国人衆に呼びかけ、甥の斎藤利堯を擁立し、美濃の独立を試みました。
しかし、これまでの間に信長から追放されていた安藤守就が明智光秀と組み、一鉄らを攻撃してきたため応戦。
守就らを破ります。
光秀は山崎の戦いですぐに敗死したものの、美濃は信長という統制者を失って、混戦状態に陥りました。
こんなところにも本能寺の変の余波が来ていたんですね。
最後の合戦は小牧長久手だった
こうした状況のさなか、一鉄は、外孫あるいは姪とされる福(のちの春日局)を稲葉家に引取り、養育しています。
また、のちに福の夫となる稲葉正成は、一鉄の息子・稲葉重通の養子です。
色々と重要な歴史の繋がりを持つ御方だったんですね。
美濃で頑張っていた一鉄は、清須会議の後、豊臣秀吉に従うことを選びました。
そして天正十二年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは久々に武働きをしていますが、これが最後の戦となりました。
秀吉との特筆すべき逸話はありません。
九州征伐から帰ってきた秀吉を饗応したり、逆に秀吉から大坂城の茶室に招かれたりしているので、まずまず良好な関係だったのでしょう。
その後は特にトラブルもなく、天正十六年(1588年)11月19日に、美濃清水城でこの世を去っています。
享年74。
ドラマチックな相続に始まって、多くの戦に参加した武将としては珍しく、畳の上での往生でした。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)