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【稲葉一鉄(稲葉良通)】
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勇猛と忠誠で知られる三河武士から望まれ
「我が家の者も連れて行って構わない」
と言ったとき、家康が一旦断ると、信長が再び加勢を申し出て、
「ならば一鉄殿を」
そう望まれたことがあったといいます。
勇猛と忠誠で知られる三河武士から望まれる――そんな名誉を受けた一鉄を、他の織田家家臣はうらやましがったとか。
話の出典が信憑性の怪しい『名将言行録』ですが、いずれにせよ一定の評価が内外問わず高かったことの現れでしょう。
ちなみに一鉄は、徳川勢と共に果敢に働き、織田勢のピンチにも駆けつけ、信長から勲功第一と賞されました。
しかし、そこで「第一は徳川殿です」と譲り、褒美として与えられた”長”の字の偏諱(目上の人が名前の一文字を家臣などに与えること)を断ったといいます。
結局は受け取るのですが、こういうところが「頑固一徹」のタネになったのかもしれませんね。
この後「一鉄」の入道号を用いるようになるので、姉川の戦いの前から出家するつもりでいたのでしょうか。
信長に暗殺されそうになった!?
偏諱を固辞したことを恨みに思っていたのか?
信長は数年後、一鉄を殺そうとしたことがあります。
しかしこれは、ねちっこく恨んでいたわけではなく、「一鉄の野郎、裏切ってますよ」というニセの報告があったのでした。
織田信長が伊勢(現・三重県)で長島一向一揆とやりあっていた頃の話です。
偽の報告を聞いた信長は「もし本当なら茶席で成敗してくれる」と一鉄を呼び出しました。
茶室にやってきた一鉄はただならぬ雰囲気を感じ取り、何とか弁明しようとキッカケを探します。
しかし、狭い茶室のこと。
ただ単に申し開きをするだけでは、かえって信長を怒らせかねません。
そこで目に入ったのが、床の間にかけてあった掛け軸でした。
正確に言うと、そこに書かれた漢詩です。一鉄の頭の中に、幼い頃、お寺で学んでいたときの記憶がふっと蘇りました。
彼のお師匠様は「心頭滅却すれば日もまた涼し」の名(迷)言で知られた快川紹喜だったので、脳みそもビシバシ鍛えられていたことでしょう。
漢詩をすらすらと読み上げ、なおかつその意味を解説しながら自分の忠誠を訴える一鉄。
これにはさすがの信長も兜を脱ぎ、「ワシが悪かった。これからも頼む」と疑いを解いたそうです。
芸ならぬ【学は身を助ける】というところでしょうか。
東奔西走――凄まじいまでの合戦歴
入道号を名乗るようになったといっても、一鉄はすぐに引退したわけではありません。
信長の上洛(1568年)後、何度も訪れた各地での戦いに参加し続けました。
ざっと挙げていきますと……。
◆元亀元年(1570年)野田城・福島城の戦い
→本願寺との戦い
◆元亀元年(1570年)志賀の陣
→浅井朝倉との戦い
◆元亀二年(1571年)長島攻め
→伊勢一向宗の拠点攻撃
◆元亀四年(1573年)槇島城の戦い
→足利義昭を京都から追放
◆天正元年(1573年)一乗谷城の戦い
→朝倉義景を滅ぼす
◆天正元年(1573年)長島一向一揆戦
→長島一揆勢を攻撃するも織田軍の敗退
◆天正二年(1574年)長島一向一揆戦
→長島一揆勢との最後の戦い。信徒2万人を焼き殺す
◆天正三年(1575年)長篠の戦い
→武田勝頼との戦いで織田徳川連合軍の快勝
◆天正三年(1575年)越前一向一揆攻め
→越前に広がる一揆勢を討伐
◆天正三年(1575年)美濃岩村城攻め
→武田に寝返った岩村城の女城主・おつやの方を攻める
◆天正四年(1576年)天王寺の戦い
→石山本願寺との戦いで鉄砲の攻撃を受け、信長が脚にケガをする
◆天正五年(1577年)紀州征伐
→雑賀衆など紀伊の独立勢力へ攻撃
◆天正五年(1577年)加賀一向一揆攻め
→柴田勝家らが100年続いた加賀一向一揆を殲滅
◆天正五年(1577年)播磨国神吉城攻め
→三木城の別所氏に続いて神吉氏も秀吉と戦闘
◆天正六年(1578年)有岡城の戦い
→信長を裏切った荒木村重を包囲する
凄まじいまでの合戦歴ですよね。
さすが一鉄。名前に負けない働きっぷりですが、彼は武働きだけでなく、軍使を務めたこともあります。
軍使とは、単なるお使いという意味ではなく、場合によっては相手との交渉も行わねばならない重要な役目。
軍使の態度がまずかったせいで、戦や交渉がこじれることもありますから、そういうことも任せられる人物を選ぶものです。
いろいろな方面で、一鉄は信長に見込まれていたんですね。そして……。
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