真田昌幸/wikipediaより引用

真田家

第二次上田合戦でも徳川撃破!大軍を再び蹴散らした親子の戦術【真田の関ヶ原】

名将・真田昌幸の名を全国に轟かせた上田合戦。

1585年の第一次と、1600年の第二次の2度にわたり、徳川家の大軍を撃退した合戦として現代にまで鳴り響いております。

が、もちろん1度目と2度目では大きく意味合いは異なります。

第一次上田合戦】は、そもそも【天正壬午の乱】からの流れで勃発したものです。

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天正壬午の乱とは、1582年に滅亡した武田家の領地を、上杉・北条・徳川の大国が奪い合った戦いです。
真田は、その三国に包囲されるような立ち位置で自らの領土保全に努めました。

その後、領土保全にあたって徳川・北条と敵対することになり、徳川方に攻められたのが第一次上田合戦となります。

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では【第二次上田合戦】とは?

第二次上田城の戦いとも呼ばれ、こちらも目的は同じく領土確保なれど、その状況はまるで異なります。
1600年という年次に注目――と言えばもうわかりますよね。

そうです【関ヶ原の戦い】の余波を受けたものです。

真田家は、時を同じくして行われるであろう三成西軍vs家康東軍の戦いで、西軍勝利に貢献するのが目的でした。
どころか、あわよくば拡大してやろう!という意思もかなりあったでしょう。

この戦いでは、たとえ東軍に上田城を攻略されたとしても、最終的に石田三成が勝てばOK!
生き残ってさえいれば、再び領土に戻ってこれる状況です。

徳川家臣・鳥居元忠のように、敵地・伏見城で孤立して、城を枕に討ち死にするような悲壮感など、真田昌幸と真田信繁親子には微塵もありません。

西軍勝利のためならば、大軍に合流するより、地の利を生かして東軍の西進を阻む――そんな遊撃部隊としての役割に徹したのです。

今回注目の第二次上田合戦は、関ヶ原の戦いが起きる前の、周囲の状況から見ておきましょう。

 

1600年 第二次上田合戦(第二次上田城の戦い)

昌幸が徳川と対する直前。
美濃の岐阜城では、織田秀信(元・三法師)が東軍と衝突し、わずか一日で落城しておりました。

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岐阜城を落とし、美濃を支配下に置けば東海道と東山道が使えますので、大軍の速やかな集合が可能となります。
そこで家康の江戸城出発と同時に徳川秀忠も主力を率いて、東山道から美濃を目指しました。

最近でこそ、徳川秀忠は関ヶ原に遅参したのではなく、そもそもの目的が東山道の制圧だったなんてことも云われたりします。

それが途中で命令変更になり、美濃に集結することになったものの、利根川の氾濫で伝令が遅達。
いざ秀忠に伝わった頃には時既に遅しであり、遅参は真田昌幸との合戦だけが原因ではないというんですね。

いずれも真偽は不明ながら、
「まぁ……何を言おうと、負け惜しみに変わりませんな」
と、つい昌幸目線で答えたくなってしまいます。

たとえ秀忠の東山道組に予定変更が伝えられたにせよ、東海道組と美濃で合流予定だったことは明白。
家康がギリギリまで東山道組を待っていたことからも間違いありません。

しかも通常は、東海道より東山道の方が、旅程の計算がしやすいと云われています。

江戸時代を通じてもそうですが、東海道には安倍川や大井川など、横断しなければならない大河がいくつもあり、それだけに天候にも左右されやすくなれます。

大雨で水かさが増せばそれだけで危険。
予定通りの行程で行くことが難しいといわれていたのです。

一方、東山道(後に中山道)は東海道よりも距離がありますが、天候にほとんど左右されません。

むしろ、ある程度、日程を調整しながら進まないと、東海道組より早すぎる到着になってしまう可能性もあり、日数の余裕から上田城攻めが行われたのではないでしょうか。

 

美濃へ急ぐ派の正信と、上田城攻略派の利勝

このとき西軍支持に回っていた真田昌幸に対し、徳川諸将の間では意見が分かれておりました。

本多正信のように
「あんなやつらは放っておいて家臣は15分前行動!さっさと現地を目指すべし!」
と、美濃へ急ぐ派。

土井利勝のように
「いやいや、上様に手土産忘れるな!」
と、積極的にせん滅すべし派に割れたと云われます。

そしていつの時代も、ごもっともな消極的作戦より、勇ましい意見の方が通るのが武将たちの理屈。

当初から上田城攻略は家康の命令だったとも云われておりますが、秀忠はまず「降伏勧告」を出しているので、最初から力攻めの意思はありませんでした。

意見の割れた徳川家臣団に対して、「降伏勧告」という折衷案を採用した二代目・徳川秀忠の調整感覚はさすがですね。

そんな事情があるとは知らない真田昌幸は、ここで徳川方をクギ付けにすることによって、畿内で東軍の集結を妨害できると考え、徳川方を挑発します。

 

千曲川の特性を組み込んだ天然の要害・上田城

ここで上田城の立地をおさらいしておきましょう。

上田の地には東山道が東西に通っていました。上野国から山を越え上田に至り、松本を通過して、さらに山を越えて美濃、近江に出る道です。

また南北には善光寺方面へ向かう善光寺街道が通っていました。
江戸時代に中山道が整備されて上田より南を通過するようにはなりましたが、松本から上田に至る道は「保福寺街道」として、江戸時代の松本藩主の参勤交代の道として活用されています。

このように上田城周辺は古代より街道の交差地点として、人の往来が盛んで国分寺も置かれていました。

そして上田には千曲川の浅瀬を比較的安全に渡れる「渡し」があったと云われています。

街道と街道が交わるクロスロードと「渡し」を支配することは、その地域の物流や人の流れ、情報までをもコントロールできてしまいます。
ゆえに、その地域に影響力を及ぼしたい為政者ならば必ず「要害を構えて侵されない」城郭化を施し、支配下に置きます。

ここに、千曲川の河岸段丘という天然の要害をも活かした「上田城」が築城されたのです。

 

前回から15年以上が経過 城の防御体制は万全だ

昌幸は、人や物の往来を完全にコントロールするため、千曲川の渡しも城の外郭に取り込んでおります。

昔は、流れの激しい千曲川に橋を架ける技術はなく、「敵の進軍も容易にする」恒久的な橋を架けることはありえませんでした。
往来者は僅かな浅瀬を舟で渡河していたのです。

かように上田城は、天然の要害「河岸段丘」と、街道&渡河ポイントを押さえた、川沿いの城の「定石通り」に建てられていたのです。

しかも、です。
「第二次上田合戦」の頃の上田城は、すでに築城から15年以上が経過し、城だけでなく市街地もかなり整備されておりました。

「第一次上田合戦」では、作戦だったとはいえ本丸まで侵入を許した東側の高台に三の丸を設け、さらにその外側にも市街地を広げて城郭の縦深を保ちます。

「第1次上田城の戦い」

第1次上田合戦」では徳川の進軍に対し、砥石城に潜んでいた別働隊(真田信幸)が背後を衝き、勝利に導きます/©2016Google,ZENRIN

上田城は、地形上どうしても城郭より東側の標高が高くなります。
この高低差の弱点を解消するため、本丸までの縦深を広げる必要があったのです。

それが三の丸の拡張と、東に伸びる市街地です。

また沼と沼をつなげる水路を掘り、敵が一直線に城へ殺到できないような町割りを施します。

街の外側には、戦時においては砦として使える寺も集めておきました。現在の上田でも、お寺は城の東側から北側に多いのですが、これは鬼門に寺社を集めたというよりも弱点を補う外郭の防衛拠点として集められたのでしょう。

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©2016Google,ZENRIN

 

砥石城を攻める兄・信幸 守るは弟・信繁だったが

西軍に与した真田家に対し、降伏勧告を出しつつも徳川方は小諸城に本陣を構えました。

第一次上田合戦同様、南東から上田城にプレッシャーをかける作戦で、兵力は約10倍。通常の攻城戦としては、攻め手に十分な余力のある戦力バランスです。そこで昌幸は……。
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