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【真田が豊臣大名になるまで】
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徳川に従うと見せかけ 上杉と接触
徳川家康は困り果てました。
北条との約束である吾妻領・沼田領の引渡しがなかなか進まないと思っていたら、昌幸はぬけぬけと上杉景勝と接触していた。
もはや武力解決しかない!
かくして【第一次上田合戦】が起こると、あろうことか徳川軍は敵を捻り潰すどころか、自軍が手痛い損害を被ってしまいます。
攻城戦とは防衛側が有利であり、攻めるほうが難しい。
とはいえ、大軍を擁していながら想定以上の打撃を喰らってしまったのです。
後詰めには上杉勢もいる。まるでスズメバチの巣のようなもので、倒そうにも損害が大きすぎる……。
『どうする家康』では、真田昌幸が子の信幸と信繁に「皆殺しにしろ」と口走っていましたが、攻城戦の防衛側は相手が撤退すればよいのであり、無駄な損害が出る殲滅戦は無駄でしかありません。
ですので、おそらくそんなことは口走らないと思うのですが……それはさておき、この戦いで真田と徳川の対立は決定的なものとなりました。
第一次上田合戦で魅せた真田戦術の凄さ~徳川軍相手に昌幸が仕掛けた策とは?
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ならば次は秀吉へ接近すればよいではないか。
とばかりに、昌幸は秀吉との接触を狙ってゆきます。
『どうする家康』では秀長がノコノコと昌幸に会いに来ていますが、むしろ昌幸が努力して秀吉に接触を図っていたのですね。
表裏比興の者が豊臣大名へ
天正14年(1586年)に【天正大地震】が起きると、秀吉は家康と合戦以外での決着をはかります。
妹の旭姫を家康の正室とし、さらには母・大政所まで人質として遣わし、ようやく家康の重い腰をあげさせることに成功するのです。
そしてこの年、家康は再び上田城攻めを発して、駿府城に入ります。
これに対し秀吉は、増田長盛・石田三成連名の書状を上杉へ出しました。
真田に味方するなという内容であり、「表裏比興の者」とはこの書状にある言葉です。
一体どこが気に入らなかったのか?
昌幸は従うと言っておきながら人質も出さず、上洛もしない。そんな態度が秀吉にとっては舐め腐ったものとしてとらえられたのでしょう。
しかしここで上杉景勝が取りなしに入り、真田は窮地を脱します。
秀吉からすれば、いったん真田征討を認めることで徳川に理解を示す。
それをとりなす上杉景勝の言い分を認めることで、上杉の顔も立てる。
“人たらし”の名にふさわしい解決手段といえます。
天正15年(1587年)、真田昌幸は上洛して、秀吉に謁見。
国衆としてしぶとく乱世をわたり、めでたく豊臣大名となりました。
ただし、昌幸からすれば不本意な決定があります。
徳川家康の与力とされたのです。
名目的には一応大名のようで、実質的には徳川配下の国衆時代と変わらぬ配置といえます。
さまざまな対立もあった関係を和らげるためか、昌幸の嫡男・信幸は、家康の重臣である本多忠勝の娘・小松姫を正室に迎えました。
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正確な時期は特定できないものの、おおよそこのころと推察されます。
信幸には既にいとこ(真田信綱の娘・清音院殿)である妻がいながら小松姫が正室とされたのです。
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