こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【武田信玄】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
「死を三年秘すべし」
今川氏の滅亡後、各大名は複雑な同盟関係を締結し、互いを牽制しあいます。
徳川家康は、上杉謙信との同盟を模索。元亀2年(1571年)、北条氏康が亡くなると、跡を継いだ北条氏政は武田との同盟を復活させます。
その一方で、密かに織田信長へ危機感をもって対処をするようになります。
表面的には友好を装いつつ、信長の敵対勢力に接触をはかるわけです。
さらに信玄は
・足利義昭
・浅井長政
・朝倉義景
・松永久秀
・本願寺と一向宗門徒
というように、次々に味方に引き入れ信長包囲網を構築していきます。
こうしてみると、信玄の策略はえげつないな、と改めて感じますね。
元亀3年(1572年)、準備万端整えた信玄は、いよいよ甲府を出陣し徳川領へ向かいます。
徳川は織田との同盟相手。今川攻めでは互いに不信感を抱いた相手でもあります。
武田軍は徳川領を進撃し、ついに両軍は激突しました。
【三方ヶ原の戦い】です。
家康はなぜ信玄に戦いを挑んだ? 三方ヶ原の戦い 謎多き戦場を歩く
続きを見る
この戦いで散々に徳川方を討ち破った武田軍は、赤備えで有名な山県昌景が家康の首を討ち取る寸前まで追い込みます。
そして信玄は「徳川に援軍を送ったのは許せない」として、織田に同盟破棄を通達するのでした。
元亀4年(1573年)、信玄は正月早々動き出し、徳川方の野田城を包囲します。
家康は救援のため出馬するも、武田軍とぶつかることはありません。
謙信に出馬を促すものの、雪に閉ざされ動くことのできない上杉軍。
武田軍は野田城を落とすと長篠城へ。
信玄の撒いた反信長の芽は今まさに花を咲かせる勢いです。
各勢力は、信長を相手に敵対行動を開始。
まるで炎が燃え広がるように、織田を苦しめる――はずが、肝心の信玄が、長篠城から動かなくなってしまいます。
重病に倒れたのでした。なんというタイミングでしょうか。
信玄は長年、病苦に苦しめられていました。
常に医者を側に置き、養生に励むも、肺結核とも癌とも推察される病には勝てる術がありません(ちなみに侍医は御宿監物・みしゅくけんもつ)。
一度は回復の兆しをみせたものの、ついに帰国を余儀なくされる信玄。
そして甲府に向かう途中、1573年4月12日に亡くなりました。
享年53。
死を三年間隠すこと。
戦を停止すること。
それを言い残し、武田信玄という巨星は墜ちたのですが、死の間際、信玄が遺したとされる「三年間隠すこと」はよく知られていると思います。
そんなことは実際可能だったのでしょうか?
甲陽軍鑑に記された遺言とは?
以前から本人も、自らの死は意識していたのでしょう。
信玄は、事前に800枚もの紙を用意し、すべてに花押を記し、諸大名からの書状に対応するように命じたとされます。
花押は原則、本人のサイン。
そこだけ本物を入れておき、各大名に対する返書の文章は右筆などが記したのでしょう。
ご丁寧に「今は病気である」というような内容で記すよう遺言で伝えられたとのことです。
さらに遺言の中には、
「勝頼は、あくまで陣代(当主代行)であり、息子の信勝が家督を継承するまで武田の旗も使わせない」
というものもありますが、現実的には当主と認められていたと考える方が自然です。
武田勝頼は最初から詰んでいた?不遇な状況で武田家を継いだ生涯37年
続きを見る
織田信長が「勝頼は強い」と認めていたように(強すぎて退けずに長篠で突っ込んだという見方はさておき)、決して無能な人ではありません。
それよりも遺言で面白いのは、死後に上杉謙信との和睦を勧めていたことでしょう。
さすがに織田信長と徳川家康との対峙は避けられぬ――という考えだったようで、信長に対しては攻め込むのではなく防御を固めるように指示しています。
さて、こうした数々の気遣いがありながら、実際のところ信玄の死はすぐさま諸国へ広まっていたようです。
武田家としては、あくまで「病気」というスタンスを貫いておりました。
仮に信玄不在だとしても、この頃にはまだ山県昌景や馬場信春、高坂弾正昌信など歴戦のツワモノたちが残っています。
簡単にどうこうできるワケでもなく、事実、勝頼のもとで、武田家の領土は拡大していくのでした。
その後、武田騎馬隊はどうなったのか?
さて、その武田家を支えた武田軍。
精強な騎馬隊がよく知られております。
野原を縦横無尽に駆け巡り、敵をなぎ倒していく姿を思い浮かべることでしょう。
少し前まで、この騎馬隊に対する否定的な考え、つまり「馬に乗って戦うことはなかった」とする説が提唱され話題になっていましたが、現在では「やはり戦っていた」という見方が有力視されてます。
将校クラスだけでなく、身分の低い者も馬に乗って合戦に参加し、その隊が組まれていることが史料から読み取れるのです。
※以下のツイートには在来種の木曽馬が凄まじい速度で走る動画が公開されています
「蘇った騎馬武者」
普段はおっとりの木曽馬。
しかし!
本気出したらスゴい!!
甲冑を身に纏った総重量90㎏の武者を乗せて約時速40㎞で突撃!
正に侍の馬武者の鎧がバタバタしてないのに注目!
上半身が揺れないのが和式馬術特有の騎乗方法です。ドン引きの迫力ですね。#紅葉台木曽馬牧場 pic.twitter.com/vahwDkvXnO
— 甲冑装束騎乗会 (@in20876533) May 26, 2020
ただし「武田信玄陣立書」には、
【鉄砲、弓、騎馬、槍】
といった順番で部隊の構成が記されており、騎馬だけが際立って凄まじい、と確定したものはありません。
実際は、他国の大名と同じような構成であったということでしょう。
基本的に合戦は、鉄砲と弓で遠距離攻撃を仕掛け合いながら、徐々に距離を近づけて槍隊の出番となり、戦況が動き始めたところで騎馬隊がトドメにかかる――そんな流れだと考えられております。
ただ、やっぱり武田家の騎馬隊が凄いらしい、という記述はありまして。
【長篠の戦い】で武田勝頼と対峙することになった織田信長が、騎馬隊を警戒している、そんな一節が『信長公記』にも記されているのです。
長篠の戦いで信長の戦術眼が鬼当たり!勝因は鉄砲ではなく天然の要害だった?
続きを見る
実は、鉄砲隊の隊列を崩すには、騎馬で突入させて撹乱させるのが定石でした。
そんな状況もあって、大量の鉄砲を用意させた織田信長が、武田の騎馬隊をかなり警戒していたのかもしれません。
長篠の戦いでは、騎馬隊を次々に突入させて無駄死にさせた、ということで勝頼の能力を否定する見方が一般的かもしれませんが、本当はやるべきことをやっていた可能性が高いのです。
むしろ長篠の戦いは、兵力を少なく見せ、山を砦のように固めていた、織田信長の作戦勝ち。
戦後は勝頼の名馬も信長に奪われてしまいました。
※続きは【次のページへ】をclick!