戦国時代の政略結婚――。
家や国にとっては万々歳でも、当人達にとって不本意だった可能性は否めません。
中でも「さすがにやりすぎ!」というのが、
徳川家康
朝日姫
の組み合わせでしょう。
なんせ彼女、豊臣秀吉の妹で、結婚当時で44才。この時点で夫もいたのに無理やり離婚させられ、家康の継室になったのです。
間もなく寿命を迎えたっておかしくない年齢なのに、なぜそんなヒドいことになったのか?
※文中の記事リンクは文末にもございます
朝日姫(秀吉の妹)
話は単純。
仲違いしていた徳川家と豊臣家の和睦のためでした。
【本能寺の変】で織田信長が亡くなると、秀吉は織田家内の重臣を討ったり懐柔したりして天下人への道を歩みました。
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その中でどうにも処理しきれなかったのが、信長と同盟関係にあった家康だったのです。
他家である上に家臣団の結束も固く、簡単に崩せる相手ではない。
そこで秀吉が最後の手段として用いたのが、妹を使った政略結婚でした。
妹と言っても前述の通り44才なんですけどね。

朝日姫/wikipediaより引用
てなわけで家康(当時46才)の元へ輿入れした朝日姫。
彼女もジッとはしておりませんでした。
婚姻からわずか2年後、
「母のお見舞いに行って来ます」
と言って京都の聚楽第に移り、以降、徳川へは戻らなかったのです。
もともとが家康を丸め込むための結婚ですから、秀吉も『もうアイツは裏切りそうにないし、追い返す理由もないか』とでも思っていたのでしょう。
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その後は朝日姫自身も病気がちになったそうで、別居からこれまた2年後に亡くなっています。
一方の徳川家康も、何とも思っちゃいなかったでしょう。
なぜなら彼には、記録されているだけで20人以上の妻(側室)がおりました。
というわけこの先は、著名な息子を産んだ妻や側室、強烈なエピソードが残っている方をピックアップしてみましょう。
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築山殿(信康生母)
最初の正室です。
今川義元の姪っ子で、家康がかつて今川家に臣従していた頃に結婚しました。
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そんな関係だったからか、あるいは余程性格が合わなかったのか。
当初から仲睦まじい夫婦とはいえなかったようです。
それでも長男・松平信康や長女・亀姫が生まれたのですから、家康の律儀さというか何というか。
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信長からの疑いによって築山殿も信康も処分されることになってしまいましたが、もし最初から双方が歩み寄っていればまた違った結末になったのかもしれません。
その場合、江戸幕府の二代将軍は当然信康になったでしょうし……この先は影響がデカすぎて想像を広げるの自体が難しいですね。
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