世俗の欲を捨て、神様仏様に使えるのが聖職者。
しかし、歴史を振り返れば、とてもそうとは思えない人も大勢いますよね。
当初から欲まみれだったのか、徐々にそうなったのか。
もちろん人それぞれですが、寛永十年(1633年)1月20日に亡くなった金地院崇伝(以心崇伝)は、どちらかというと前者として見られることが多いようです。
【黒衣の宰相】とも呼ばれたりしますね。
このアダ名は彼固有ではなく、他に5人ほど候補が挙げられます。
全員キャラが濃すぎて、お腹の中がブラックなのがひしひしと伝わってきますが、果たして金地院崇伝は本当に黒いのか。
いかにして徳川家康に重用されたのか。
その生涯を振り返ってみましょう。
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金地院崇伝(以心崇伝)の出身は一色家
崇伝は永禄十二年(1569年)、一色秀勝の子に生まれました。
一色家は室町幕府の重臣の家。父の秀勝はあの剣豪将軍こと足利義輝に仕えていた武将です。
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大河ドラマ『麒麟がくる』でもご存知の通り、当時の幕府は凋落著しく、一色家も厳しい状況にありました。
そのためか、崇伝は若くして南禅寺に入り、まずは玄圃霊三(げんぽれいざん)という僧侶の弟子になっています。
醍醐寺三宝院でも学んだりして順調に修行を積んでいった崇伝は、その後、37歳で、臨済宗及び禅寺の中で最も格の高い南禅寺で住職になりました。
金地院崇伝の「金地院」とは、このころ再興したお寺から来ています(江戸や駿府にも金地院を建立している)。
このとき、徳の高いお坊さんにしか与えられない【紫衣】を後陽成天皇から賜っていました。
表舞台へ出てきたのは関ヶ原後
崇伝が政治の舞台に出てくるのは、慶長十三年(1608年)のこと。意外にも関ヶ原の戦い後なんですね。
西笑承兌(さいしょうじょうたい)という、これまた家康の知恵袋だったお坊さんが亡くなってしまったので、その代わりが務まる僧侶ということで駿府へ招かれたのです。
承兌は、直江兼続が例の慇懃無礼な果たし状【直江状】を出したときの宛て先でもありますので、聞き覚えのある方もいらっしゃるでしょうか。
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ちなみに、こうした僧侶が重んじられるのは、学識を備えた彼らが外交・文化面で活躍したからです。
日本国内のみならず、このころ家康はアジア各国との交渉にも及んでいて、正式な国書に用いる「漢文」に精通した崇伝が活躍しました。現代の政治でいえば有識者会議みたいなものですね。
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