1643年11月13日(寛永20年10月2日)、徳川家康の参謀役だった僧侶・天海が亡くなりました。
京都の南光坊で色々とやっていたので南光坊天海とも呼ばれます。
この人は前半生は謎だらけな人物で、生年は天文5年(1536年)だと推測されたりしますが、それより何より有名なのが「実は明智光秀だったんじゃね?」説ですね。
光秀もまた生年不明で、おそらく信長より歳上であったと考えると、天海の享年は最低でも110歳オーバーとなります。
ハハハハハッ。
もう、ありえないですよね。
しかし、同説がそこそこ世に広まったのも、全くの無根拠というワケではなくて。
今回は、それを眺めつつ、一人ツッコミ大会をしたいと思います。
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勘違いその①日光東照宮の桔梗紋
光秀=天海説の根拠と一つに、日光東照宮があります。
日光東照宮は天海総指揮のもとで造営されました。
その日光東照宮で「明智の桔梗紋が使われている!だから光秀と天海は関係あるに違いない」とされた発想です。
では桔梗紋はドコにあるのか?
陽明門・随身像の袴にあると指摘されます。
確かに明智光秀の家紋は”水色桔梗”ですが、桔梗の家紋は清和源氏系の家が多用していて、それだけで光秀に結びつけるのはあまりに強引。
というか、そもそも同説には重大な誤りがあります。
随身像を画像で確認すると早いのですが、

日光東照宮・陽明門の随身像(膝の辺りにある文様が……)
桔梗紋とされるこの文様、袴に使われる一般的なデザインで「窠に霰(かにあられ)」と呼ばれるものです。
確かに織田木瓜とも桔梗紋とも似ているんですけどね。

左が織田木瓜で右が土岐桔梗・似ているようで違いますよね/wikipediaより引用
特定の家を指し示すものではないということです。
勘違いその②首実検が甘い
【山崎の戦い】は旧暦6月=新暦7月。
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そのため光秀の首は夏の暑さでかなり傷んでしまい、きちんとした本人確認ができていないのでは?とも言われています。
つまり、秀吉の前に出てきたのは別人(影武者)で、本人は生きており、頭を丸めて隠遁していたのでは?という説ですね。
源義経も似たような話がありますね。
それで義経=チンギス・ハーン説があるんですが、両者共に眉唾でしょう。
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光秀の首を介錯したのは三沢秀次(溝尾茂朝・溝尾庄兵衛)と言われていて、信憑性については判断しにくいところでもあります。
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まぁ、これを言い出したら、織田信長なんて遺体が発見されませんからね。
それに敗軍の将やトラブル時における追手の厳しさはハンパじゃありません。
関ヶ原後の石田三成にしても、本能寺の変後の穴山梅雪にしても、結局、捕まったり殺されたりしています。
稀代の謀反人に対して監視の目が緩むことはないでしょう。
では、他の3説も見てみましょう。
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