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【家康の妻と側室】
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長勝院(秀康生母)
決して無能ではないのに冷遇された家康の次男・結城秀康。
その母親です。
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当初、築山殿の身の回りの世話役を務めており、そのうち家康の目に留まってお手つきになりました。
秀康がお腹にいた頃「築山殿の嫉妬に遭い、服を剥ぎ取られて真夜中の庭木にくくりつけられた」という逸話がありますが、その頃には別々の場所に住んでいたため、後世の創作の可能性大ですね。
何かと悪者にされる築山殿が可哀想……。
彼女は秀康よりも長生きしているのですが、息子が亡くなったとき家康の許可を待たずに出家したといいます。カーチャンだけでも愛してくれて良かったな秀康!(´;ω;`)
お咎めがなかったのは、たぶん家康もわかっていたからなのでしょう。
もうどうでもよかったなんてそんなまさか……。
西郷局
一度結婚していたものの、夫に先立たれて未亡人となり、家康に気に入られて奥に入りました。
現代的な感覚で言えば将軍の母=勝ち組ですが、彼女自身が28歳の若さ(1589年)で亡くなっているため、徳川家の天下を見ておりません。
したがって秀忠の妻・お江との嫁姑問題や江戸幕府への影響はなかったでしょう。

西郷局/Wikipediaより引用
西郷局は、美人かつ心優しい女性だったらしく、家康はもちろん家臣や侍女にも相当慕われていたようです。
近眼だったそうで、目を患った女性の支援を行っており、亡くなったときにはかつて恩を受けた女性たちがこぞって彼女の冥福を祈りに来たといわれています。
当時の平均寿命的に考えると江戸時代初期まで生きていてもおかしくはありませんが、その場合、息子・忠吉の早世を目の当たりにすることになるので、どちらにしろ哀れな人ということになってしまいますね。
まさに佳人薄命を地で行くような人生でした。
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お勝の方(お梶の方)
幼い頃から賢さで知られた人です。
最初は「お梶の方」と呼ばれていました。
彼女の逸話で有名なのは、家康があるとき、家臣たちに「一番美味いものと一番まずいものは何か?」と尋ねたときの話でしょう。
皆どちらかというと自分の好き嫌いを披露していたかと思われますが、彼女は「一番美味しいものも一番まずいものも塩です。どんなものでも塩で適度に味を調えなければ美味しくならず、だからといって入れすぎたり塩そのままでは食べられない」という実に理に適った返答をしました。ぐうの音も出ません。
その頭脳を買われてか。関ヶ原や大坂の陣にも男装・騎乗で同行したそうです。
特に関ヶ原のときには「この勝利はお梶がいたからに違いない! お前は今日から『お勝』と名乗れ!」と言われて改名したといわれています。
家康のテンションが上がった話とか、珍しいですね。
その他にも倹約家だったことがより家康の気に入ったらしく、家康の死後も幕閣から一定以上の尊敬を受けていました。後に春日局が台頭したときにも、お勝の方のほうが序列が上だったほどです。
江戸幕府随一のキャリアウーマンといっていいでしょう。
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