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【戸田氏鉄】
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大垣でも得意の築城&治水技術を活かす
尼崎藩での実績を評価された氏鉄さんは、寛永12年(1635年)に大垣藩10万石に大出世。
3代将軍の徳川家光の時代です。
大垣は名産に「水まんじゅう」があるなど水が豊かである一方、大小様々なサイズの河川が入り組み、尼崎と同じく水害に悩まされる地域でもありました。
氏鉄さんは尼崎で培った河川工事技術を活かし、水門を新たに設けるなど、大垣の領民を水害から救いました。
また、慶安2年(1649年)には居城の大垣城を、明治時代の廃城まで200年以上続く姿へ大リフォームしています。
話は前後しますが、大垣藩に移って2年後の寛永14年(1647年)、62歳の氏鉄さんは、あの「島原の乱(島原・天草一揆)」にも参戦しています。
実戦経験が少ないメンバーが多かった幕府軍の中で貴重な戦力だった氏鉄さんは副将的なポジションに指名され、松平信綱(“知恵伊豆”と称された幕府の重臣)と共に鎮圧に大貢献しています。
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4代将軍家綱生誕時に「へその緒」を切った
家康時代に小姓。
秀忠時代に大坂城築城の総奉行。
家光時代に島原の乱を鎮圧。
江戸幕府にとって無くてはならない存在となっていた氏鉄さん。
寛永18年(1641年)には、後に4代将軍となる徳川家綱が誕生した際、なんと、へその緒を切るという大任を務めています。
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その家綱が慶安4年(1651年)、将軍に就任したのを見届けると、氏鉄さんは同年に隠居し、明暦元年(1655年)に80歳でお亡くなりになっています。
平均寿命が50歳くらい?という時代の80歳ですから大往生ですね。
その後、大垣藩は氏鉄さんの善政もあって幕末まで戸田家が藩主を務めました。
明治時代になると、大垣城は廃城となったものの天守などは残され、昭和11年(1936年)、国宝に指定されています。
昭和20年(1945年)の空襲で焼失してしまったものの、大垣の人々の熱意により、昭和34年(1959年)に復元され、平成29年(2017年)には「続日本100名城」にも選ばれています。
氏鉄さんのカッコいい銅像が建つ大垣公園の北には、氏鉄さんを祭神とした「神社」も建立されています。
同地を歴史巡りの際には併せてどうぞ!
実際に僕が大垣城を探訪した動画が以下にアップされております。
よろしければご覧ください!
全国にはまだまだ知られざる名将たちがいます。
今後もがんばりますので、ご期待くださいませ!
文:れきしクン(長谷川ヨシテル)
◆れきしクンって?
元お笑い芸人。解散後は歴史タレント・作家として数々の番組やイベントで活躍している。
作家名は長谷川ヨシテルとして柏書房やベストセラーズから書籍を販売中。
【著書一覧】
『あの方を斬ったの…それがしです』(→amazon)
『ポンコツ武将列伝』(→amazon)
『ヘッポコ征夷大将軍』(→amazon)
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