こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【妖刀村正】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
江戸時代以降の怪談ブームでブレーク
まず、最も簡単な所から。
由井正雪と倒幕派が所持していた村正についてです。
これじゃ成功するわけねぇ! 由比正雪の乱は計画があまりに杜撰でアッサリ鎮圧
続きを見る
徳川に祟る妖刀――村正の伝説がいつ頃から噂されるようになったかは不明ですが、江戸後期には歌舞伎などの怪談ブームがあり、妖刀村正の演目は大変な人気を博しました。
結果、幕末の頃には村正の伝説は庶民の間に完全に定着。
「村正=徳川に祟る妖刀」という図式が完成していたようです。
そのため、倒幕を志す者にとって村正は
「徳川に仇なす刀」=「倒幕を達成するための縁起物」
と解釈され大人気商品となりました。
無銘の刀を「村正」と騙って販売する詐欺まで横行し、巷には村正の偽物が大量に出回ったのだとか。
よって、由井正雪や倒幕派の志士が佩いていた村正については【逸話→伝説】ではなく、むしろ【伝説→逸話】、特に倒幕派に至っては【伝説→詐欺商法】という現象であったと言えるでしょう。
幸村と村正の記述は幕末の名言集
次、真田幸村が所持していた村正についてです。
真田信繁(幸村)は本当にドラマのような生涯を駆け抜けたのか?最新研究からの考察
続きを見る
これは『名将言行録』という書物に収録されている話で、「幸村は家康を滅ぼすため、徳川に仇なす村正を持っていた」との記載があります。
でもこの『名将言行録』って幕末の書物なんですよね。
その名が示すとおり、戦国期の武将や大名の言行についての記録を集めたもので、中には講談や歌舞伎が元ネタになっていたり、民間伝承を収録しただけのものもあったりします。
大坂の陣における豊臣方のスーパーヒーロー・真田幸村と徳川に祟る妖刀村正、この取り合わせに江戸期の歌舞伎脚本家が喰い付かない訳がなく……ええ、幸村が村正を所持していたという実際の記録はありません。残念です。
三重で作られた村正は東海地方の武士のデフォ?
三つ目、村正が徳川に祟ると評判になった始まり――家康公の家族の事件に使われた村正について。
これは一見するとすごい偶然の一致のように思えます。
祖父と父、息子と妻が殺害され、その凶器の全てが村正。現代日本でこんな事があったら、ものすごい偶然の一致、というか何らかの意図があると考える方が自然でしょう。
しかし、この記事の冒頭、村正の基本解説を思い出して頂きたいのですが、村正は伊勢国、つまり三重県桑名の刀工です。
対して徳川の本拠地であった三河は愛知県の東部……あれ? 近くないですか?
家康の家族の事件に使用された凶器が全て村正だった――。
というのは、当時、
「村正が三河武士の間で普通に装備されていた」
ためであって、みんなが村正を持っていれば、凶器も村正になりますよね、という話なのです。
当時の物流事情から言って、大名や大商人でもない限り、正宗などの名物を遠国から取り寄せるなんてことはできませんし、下っ端の刀は無銘である事がほとんどです。
中流階級の武士が求める刀と言ったら大体近場の刀工のものになりますよね。
手や指の怪我についても同じ事が言えそうです。
家康公の手を切った刀については、上述の理由から村正であっても不自然ではありませんし、槍の検分を家康公に所望された武将の名は織田長孝=織田信長の甥であり、伊勢のすぐ北側である美濃(岐阜県)に所領を持っていました。
これも同様の理由で片付けられそうです。
そんな訳で「なぜ村正が凶器だったのか?」という問題は「身の回りの刃物が村正ばっかりだったから」という結末に落ち着きそうです。ちなみに……。
※続きは【次のページへ】をclick!