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【於万の方(長勝院)】
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秀吉にも見放され
家康から冷遇され、割り切って生きるしかない於万の方とその息子・結城秀康。
天正12年(1584年)には豊臣秀吉の養子とされ、このときから秀康と名乗りました。要するに人質です。
当時の秀吉は、徳川に対してイライラしていました。実質的な人質として我が子を送ってきたものの、家康本人が上洛しない。
そこで秀吉はこう脅します。
「上洛しないのであれば、秀康の身は保証できんが、それでいいのか?」
「どうぞ、どうぞ、秀康は徳川の子ではなく、そちらの子でしょう。お好きになさればよろしい。しかし、そんなことをしたら世間はどう思いましょうか」
こんな調子で何ら堪える素振りもない家康。
天下を窺う二人ならではの、ギリギリの駆け引きかもしれませんが、それにしたって以前の態度からして、あながち冗談だけとも思えない。
もはや人質としての効果は無し――秀吉もそう悟ったのでしょう。
妹の朝日姫を離縁させてまで嫁がせ、さらには母の大政所も送り込み、ようやく家康を引きずり出すことに成功しました。
残された秀康はどうなってしまうのか?
養父である秀吉に男児が生まれなければ、別の道もあったかもしれません。
将としての才には恵まれていたのでしょう。秀康は優れた武勇を見せていました。
しかし、天正17年(1589年)に秀吉の妻である淀の方が男児を産むと、微かな可能性すら潰れてしまいます。
実父からも養父からも見放された秀康。
ついに彼は、下総の名門である結城晴朝の養女・江戸鶴子に婿入りさせられました。
75万石の大大名となるも
徳川から豊臣へ人質に出され、ついには結城家に婿入りさせられた秀康。
程なくして迎えた【関ヶ原の戦い】では、北ノ庄城主75万石として上杉を抑えに回り、その後も大名として存続します。
母・於万の方の身分を考えれば、75万石は上出来すぎる大大名のはずです。
しかし、秀康本人は鬱屈した感情を払拭できなかったでしょう。
弟である秀忠は、自身の目からすれば凡庸にすら見える。秀康本人がどれだけ英雄豪傑気質でも、徳川家を継ぐことはできない。
理不尽な現実に苛まされながら、慶長12年(1607年)、秀康は34の若さで没しました。
死因は梅毒と伝わります。
我が子を亡くした於万の方は、ほどなくして出家し、長勝院となります。
そして元和5年(1619年)、北ノ庄において死去します。享年72。
★
こうして於万の方の生涯を辿ると、ある思いに支配されます。
家康の妻は数多いるのに、なぜ『どうする家康』では彼女をわざわざクローズアップしたのか?
妊娠後、全裸放置されるという虐待を受けたエピソードばかりでなく、城を追い出され、我が子が生まれても父の家康には放置され、面会したかと思ったら「ギギに似ている」という言葉。
この辺の話は半分に聞いておくとしても、長じてからは実質の人質として、秀吉の養子にされた挙げ句、たらい回しにされた。
我が子・秀康が鬱屈の後に早逝すると、自らは出家……と、世間から捨てられ忘れら去られる女性です。
これまでの家康作品でも扱いが小さかったのは、それなりに理由があり、残念ながら料理しにくい素材だから。
それが『どうする家康』では、後に家康の前に現れ、秀忠の良き兄弟として補佐に回っていました。
都合の良い母子とも言えるし、素直な母子とも言える。
彼女が悪態をつくようなシーンはなかったので『母子ともに家康との親子関係は良好だったんだな!』と思われた方も少なくないでしょう。
結城秀康の生涯については、以下の関連記事に詳細がございます。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
大塚ひかり『ジェンダーレスの日本史-古典で知る驚きの性』(→amazon)
黒田基樹『家康の正妻築山殿』(→amazon)
他