大河ドラマ『どうする家康』に“お万”という女性が登場しました。
劇中では松井玲奈さんが演じていたこの女性、実在した於万の方(長勝院)のモデルとされ、元和5年(1620年)12月6日はその命日。
生前の彼女は徳川家康の次男・結城秀康を産み、ドラマで詳細は描かれませんでしたが、この母子はかなり辛い人生を歩まされています。
家康の正妻・瀬名(築山殿)に嫌われ、それだけでなく家康自身からも疎まれたのです。
では、なぜ疎外されたのか?というと、ドラマのサブタイトルでもあるように家康に「お手付き」されたのがすべての始まり。
まるで望まぬカタチで生まれてきたかのような秀康は、後に家康の長男・松平信康が自害へ追い込まれても、徳川家の跡取りとはならず、人質へ出されるなどして冷遇されました。
それは一体どんな状況だったのか?

知立神社にある於万の方の銅像/wikipediaより引用
史実における於万の方(長勝院)の生涯を振り返ってみましょう。
そもそも「お手付き」とは
徳川家で“お万の方”と言えば、NHKドラマ10『大奥』で福士蒼汰さんが演じた、万里小路有功のモデルも同名の女性でした。
彼女は家光に「愛を教えた」と表現される存在で、以下に関連記事がございますが、
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『どうする家康』のお万は「愛」という観点からすれば、非常に微妙な存在。
そもそも「お手付き」というのは、カルタ遊びで間違った札を取ってしまったり、転じて早押しクイズでボタン操作を誤ってしまうことであり、家康と侍女の話となるとややこしいことになります。
主人が下女と肉体関係を結ぶこと――あるいは、そうなった女性を指すのです。
身分制度が厳しかった時代、目上の者に求められたら断ることはできず、現代ならば性暴力と指摘されかねない状況ですね。
では、ドラマで「お手付き」されてしまった彼女は、史実ではどんな女性だったのか?

徳川家康/wikipediaより引用
子供ができたら城を追われて
於万の方は天文17年(1548年)、三河で永見貞英の娘として生まれたとされます。
身分はそこまで高くないと考えられ、年齢的には家康の5つ下。
そんな於万の方が、家康の子である結城秀康を産んだのは天正2年(1574年)のことでした。

結城秀康/wikipediaより引用
数え年で27歳になる彼女と、32歳の家康ですから、当時であれば若くはない二人ですね。
彼女の名前を「おこちゃ」と記した書状も残されていますが、ドラマの“お万”に準拠し、於万の方で進めてゆきましょう。
この於万の方、とにかく悲惨な話がつきまといます。
徳川家康には数多の妻がいて、例えば阿茶局は知性を武器に大坂の陣でも活躍しましたが、お万にそういった一面はありません。
家康の子を妊娠すると、浜松城内から追い出されてしまいます。
当時の正室は「夫の血を引く子を認知するかどうか」という権限を有していて、問題無しと見なされた女性が側室になることもありました。
しかし、正室の管理外で妊娠した場合には罰則があり、於万の方もそうだったのでしょう。
ゆえに彼女は追い出されてしまうわけです。
全裸で縛られ 庭に置き去り
歴史的に、正妻が他の女性を追い出す例は他にもあります。
例えば北条政子は、源頼朝の子を管理しており、男児は出家させられ将軍職から遠ざけられました。
その反対に、管理外――頼朝が妻に隠れて密会などしてれば、【亀の前騒動】のような悲劇となることもあります(詳細は以下の記事へ)。
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家康の子供・徳川秀忠にも、同様の例があります。
この時代は、まだ大奥が成立前であり、夫の子供は正室が管理。
そんな状況で、身分が高くないお静が妊娠したため、その存在は伏せられ、保科家で養育されました。
後に名君として知られる保科正之です。

保科正之/wikipediaより引用
いずれにせよ、家を預かる正室としては、時に非情な判断を下さねばならない。
いたずらに男児が増えても相続リスクが高まるばかりで、仕方のない面もありました。
しかし、時代が進むにつれ、こうした正室の権限と責任は忘れ去られ、北条政子も、お江も、そして築山殿らの行動は「嫉妬深い悪女」という印象で語られるようになりました。
築山殿には「妊娠した於万の方を折檻する」なんて伝説も残されているほど。
全裸にして縛り、庭に置き去りにしたというのです。

築山殿/wikipediaより引用
彼女の泣く声を聞きつけた者により救われ、命は取り留め……という話で、こうした毒々しいエピソードは半信半疑で捉えておいたほうがよいでしょう。
後世の創作あるいは盛りに盛った話という可能性があるからです。
愛より大義の家康
全裸の折檻は話半分――とはいえ、妊娠した於万の方を城から追い出したのは間違いない。
その後の家康も、冷淡そのものでした。
於万の方が産んだ男児を人任せとしたばかりでなく(子供は双子説も)、その後ようやく面会したときも、子供の顔を見て、こんなことを言ったという話があります。
「ギギ(ナマズ科の魚)に似ているのぅ……名は於義伊(おぎい)とせよ」
“素っ気ない”を通り越して、人格否定とも思える言葉でしょう。
これは何も秀康に対してだけでもなく、六男・松平忠輝に対しても酷い話が伝わっています。
「色が黒いし、目が吊り上がっていてなんともおそろしい顔だ。かわいくない。捨ててしまえ」
さらには7歳になった忠輝をしみじみと見て、嫌そうにこう語ったとも。
「恐ろしい面構えだな。幼い頃の三郎(長男・松平信康のこと)そっくりだ……」
いくらなんでも、これが我が子に投げかける言葉でしょうか。
しかもタイミングが最悪で、信康が非業の死を遂げた後に言い放つのですから、人間性すら疑わしくなってくる……と、これまた後世の誇張が大きいのでしょう。

松平信康/wikipediaより引用
かつて日本では「子は親の所有物」という価値観が強固であったことも考慮せねばなりません。
しかし……そうした状況を勘案しても、家康に酷薄な一面があったのは否定できないかもしれません。
例えば2020年『麒麟がくる』でも興味深いシーンがあります。
このドラマの家康は、織田信長が父・松平広忠を暗殺したという劇中の設定を知っていましたが、当時、竹千代と呼ばれていた少年家康は「あんな父は嫌いだからそれでよい」と語っていました。
あるいは信長が、築山殿と信康の殺害を命じたとき、明智光秀にことの是非を相談したときもそうです。
愛する妻子を殺す苦しみより、徳川家の内部事情に織田が口を出すことへの困惑と不快感のほうが大きいように思えた。
だからでしょうか。妻子の死後、武田に通じていたことが判明すると、サッパリした顔で納得していたものです。
SNS等では、あの家康の冷たさを「気持ち悪い」とみなす意見もありました。
しかし、公私混同をせず自分の家庭より大義を重んじる――これは天下人にふさわしい風格があるのでは?と私には思えました。
史実の彼女に話を戻しましょう。
秀吉にも見放され
家康から冷遇され、割り切って生きるしかない於万の方とその息子・結城秀康。
天正12年(1584年)には豊臣秀吉の養子とされ、このときから秀康と名乗りました。要するに人質です。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
当時の秀吉は、徳川に対してイライラしていました。実質的な人質として我が子を送ってきたものの、家康本人が上洛しない。
そこで秀吉はこう脅します。
「上洛しないのであれば、秀康の身は保証できんが、それでいいのか?」
「どうぞ、どうぞ、秀康は徳川の子ではなく、そちらの子でしょう。お好きになさればよろしい。しかし、そんなことをしたら世間はどう思いましょうか」
こんな調子で何ら堪える素振りもない家康。
天下を窺う二人ならではの、ギリギリの駆け引きかもしれませんが、それにしたって以前の態度からして、あながち冗談だけとも思えない。
もはや人質としての効果は無し――秀吉もそう悟ったのでしょう。
妹の朝日姫を離縁させてまで嫁がせ、さらには母の大政所も送り込み、ようやく家康を引きずり出すことに成功しました。
残された秀康はどうなってしまうのか?
養父である秀吉に男児が生まれなければ、別の道もあったかもしれません。
将としての才には恵まれていたのでしょう。秀康は優れた武勇を見せていました。
しかし、天正17年(1589年)に秀吉の妻である淀の方が男児を産むと、微かな可能性すら潰れてしまいます。

淀殿/wikipediaより引用
実父からも養父からも見放された秀康。
ついに彼は、下総の名門である結城晴朝の養女・江戸鶴子に婿入りさせられました。
75万石の大大名となるも
徳川から豊臣へ人質に出され、ついには結城家に婿入りさせられた秀康。
程なくして迎えた【関ヶ原の戦い】では、北ノ庄城主75万石として上杉を抑えに回り、その後も大名として存続します。
母・於万の方の身分を考えれば、75万石は上出来すぎる大大名のはずです。
しかし、秀康本人は鬱屈した感情を払拭できなかったでしょう。
弟である秀忠は、自身の目からすれば凡庸にすら見える。秀康本人がどれだけ英雄豪傑気質でも、徳川家を継ぐことはできない。
理不尽な現実に苛まされながら、慶長12年(1607年)、秀康は34の若さで没しました。
死因は梅毒と伝わります。
我が子を亡くした於万の方は、ほどなくして出家し、長勝院となります。
そして元和5年(1619年)、北ノ庄において死去します。享年72。
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こうして於万の方の生涯を辿ると、ある思いに支配されます。
家康の妻は数多いるのに、なぜ『どうする家康』では彼女をわざわざクローズアップしたのか?
妊娠後、全裸放置されるという虐待を受けたエピソードばかりでなく、城を追い出され、我が子が生まれても父の家康には放置され、面会したかと思ったら「ギギに似ている」という言葉。
この辺の話は半分に聞いておくとしても、長じてからは実質の人質として、秀吉の養子にされた挙げ句、たらい回しにされた。
我が子・秀康が鬱屈の後に早逝すると、自らは出家……と、世間から捨てられ忘れら去られる女性です。
これまでの家康作品でも扱いが小さかったのは、それなりに理由があり、残念ながら料理しにくい素材だから。
それが『どうする家康』では、後に家康の前に現れ、秀忠の良き兄弟として補佐に回っていました。
都合の良い母子とも言えるし、素直な母子とも言える。
彼女が悪態をつくようなシーンはなかったので『母子ともに家康との親子関係は良好だったんだな!』と思われた方も少なくないでしょう。
結城秀康の生涯については、以下の関連記事に詳細がございます。
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【参考文献】
大塚ひかり『ジェンダーレスの日本史-古典で知る驚きの性』(→amazon)
黒田基樹『家康の正妻築山殿』(→amazon)
他






