慶長5年(1600年)9月15日に関ヶ原の戦いが勃発。
そのわずか2日後の9月17日、東軍に攻め込まれたのが近江の佐和山城です。
佐和山城とは、石田三成の居城。
つまり、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、三成の息の根を完全に止めるため、その本拠地へ襲いかかったワケです。
【佐和山城の戦い】などとも呼ばれたりしますが、徳川軍が直接攻めたワケではありません。
攻略を命じられたのは、関ヶ原で「裏切り者」たちと呼ばれた武将たち。
三成に苦汁を舐めさせた張本人たちです。
彼ら裏切り者たちも忠誠心を試されるのですから必死であり、最終的に色々と切ない悲劇へと収束していきました。
さっそく振り返ってみましょう。
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三成最後の頼りは毛利に立花!
関ヶ原で敗北した石田三成は、まず背後にあった伊吹山に逃れ、その後、右往左往しながら逃走を続けました。
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彼は結局、大坂城にステイしていたので、逆に言えばまだ兵力を温存しているということにもなります。
なんといっても毛利家は西国随一の大大名。単独でも3万程度の兵は動員できるはずでした。
さらには、西軍最強の武将とよばれる立花宗茂も無傷であります。
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三成はこれを諦めきれず、再戦しようとしていたのでしょう。
そのためにはまず居城の佐和山へ戻り、支度をしてから大坂へ向かう必要があります。
しかし、その間に、佐和山城と家族が大変なことになったのです。
佐和山城の戦いに参戦したのは小早川秀秋たち
留守の佐和山城を守っていたのは、三成のお父さん・石田正継や、お兄さん・石田正澄など、石田一族が中心。
ほとんどの兵は関ヶ原へ出払っており、残っていたのは2,800人ほどで、しかも、老兵や女性などしかいなかったともいわれています。
兵としてカウントできたのは1,000ほどだったとか。
対する東軍はといえば、損耗はしているもののまだまだ兵力には余裕がありました。
先鋒は、日本史上最大の裏切り者の名をほしいままにする小早川秀秋。
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実は最初から東軍だと思われていたという見方が有力ですが、このとき同行していたのが、朽木元綱や小川祐忠、脇坂安治、赤座直保だったのです。
朽木、小川、脇坂、赤座の4名は、関ヶ原の当日に裏切りが判明し、大谷吉継や平塚為広らの軍を壊滅に追い込み、関ヶ原の動向を思いっきり左右した人物でありました。
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家康はそんな彼らに佐和山城攻めを命じたのです。
なお、搦め手(裏門)からの攻略部隊は、近江出身かつ豊臣系武将だった田中吉政を配置。
万全とも言える態勢でした(実際、この田中吉政の部隊が後に石田三成を捕縛します)。
家康自身は、佐和山の南方にある平山に陣取り、戦いの行方を眺めることにしました。
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