こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【佐和山城の戦い】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
「女郎墜」という怖い地名
佐和山城は昔から近江(現滋賀県)の要所といわれていました。
ただ、城自体はそう大規模なものではありません。
石田一家と城兵たちは一昼夜、大軍の猛攻を防ぎきり、健闘します。
しかし、ここでまたしても裏切りにあってしまいます。
共に篭城していた三成の近臣・長谷川宇兵衛守知(もりとも)という武将が手引して、城内へ敵を引き入れ陥落させたのです。
この長谷川守知という武将、もともと東軍側から送り込まれた間者であったとも囁かれています。城外の小早川隊と連絡を取っていたんですね。
一方、内通者がいるなんて予想もしていなかった石田家。
15,000という大軍に攻め込まれては為す術もなく、三成の帰還までもたずに翌18日、一族揃って天守にのぼって自害を余儀なくされます。
なお、このとき石田方の土田東雲斎という者が櫓から金銀をぶん投げ、自害の時間を稼いだとも伝わっております。
小早川秀秋は「不届き者たちよ」と嘆いたそうですが、まぁ、雑兵たちだったら仕方のない話ですよね。
戦国時代はリアル北斗の拳ワールド~食料を奪い人身売買も日常だった
続きを見る
石田正継や石田正澄らは逃げ延びて自刃したとされ、そのほか多くの者も自害して、城には火がつけられました。
『慶長記』には「天守の上の重より火見え候」と書かれています。
女性たちは敵に辱められるのを恐れ、本丸直下にある谷に身を投じた――そんな噂話から、この谷は今でも
「女郎墜(じょろうおち)」
「女郎ヶ谷」
などと呼ばれているんだそうです。ひえぇぇぇぇ。
源義経や楠木正成のように、ブッ飛んだ戦法を思いつける人が城にいたら、多少は展開も違ったのかもしれません。
しかし、そんなIFを妄想しても仕方なく、結局、佐和山落城により、西軍が盛り返すチャンスは完全に消えてしまったのでした。
彦根城から見える佐和山城跡の悲哀
この佐和山城が具体的にどこにあったのか?
実は、ゆるキャラ「ひこにゃん」で有名な彦根城の目の前、直線距離にして数キロ程度のところです。
※琵琶湖のほとりにあり、すぐ近くには安土城も
黄→佐和山城
赤→彦根城
紫→安土城
三成は人付き合いは下手だったと思われる一方、内政は得意だったので領民からは慕われていました。
しかし、徳川が勝ったからにはいつまでも三成を懐かしまれていては困る……ということで、佐和山城は徹底的に破壊されてしまいます。
今はごくわずかに城の痕跡が残るのみで、建物らしい部分はほとんど残っていません。
彦根城は井伊直政や、後の藩主・井伊直弼ゆかりの城としても知られますね。
ちなみにこれで無事家康の機嫌を取れたかと思われた小早川秀秋は、2年後に20歳で死亡。
三成の祟りだとか大谷吉継の呪いだとかいろいろ言われています。
なお、佐和山城の陥落直前に「金銀がばら撒かれた」とあり、財宝の派手な様子を想像された方もおられるかもしれませんが、城内は極めて質素であり、三成が私腹を肥やすようなことがまるで無かったことが見てとれます。
まさに忠臣と呼ぶに相応しい――そんな三成の生涯が以下の記事にまとまっておりますので、よろしければ関ヶ原の戦い記事と併せてご覧ください。
あわせて読みたい関連記事
関ヶ原の戦いは家康vs三成の本戦だけでなく全国各地で合戦が勃発【総まとめ】
続きを見る
石田三成・日本史随一の嫌われ者の再評価とは? 豊臣を支えた忠臣41年の生涯
続きを見る
徳川家康はなぜ天下人になれたのか?人質時代から荒波に揉まれた生涯75年
続きを見る
西の戦国最強と称された立花宗茂~浪人から大名へ復活した76年の生涯
続きを見る
なぜ小早川秀秋は東軍に走ったのか 関ヶ原の裏切り者 儚い生涯21年まとめ
続きを見る
関ヶ原に出現した「第二の裏切り者」対峙した平塚為広の奮戦ぶりに泣ける
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
澤宮優『戦国廃城紀行 敗者の城を探る』(→amazon)
三池純正『義に生きたもう一人の武将 石田三成』(→amazon)